起きていて見る夢
しょせんは、素人の作品だと思ってはいるが、心の底で、いい作品を書けると自分で信じている証拠ではないか。それは前向きで悪いことではないと思うのだが、社交辞令でもなく、
「読ませてほしい」
などというのであれば、それは、盗作を疑ったとしても、無理もないことだろう。
安易な気持ちで読ませてしまうと、
「後悔するのは自分だ」
と思うことになるだろう。
「プロになりたい」
と少しでも思うのであれば、盗作を疑うのは当然のことなのかも知れない。
小説を書くために、いろいろな本を読んだりした。SF系の小説を書いてみたいとは思ったが、なかなかうまく書けるものではなかった。それでも、数本書いたことがあった。それは、最初から小説を書くのに、
「恰好よく書こう」
なんて考えないようになってからだった。
書けるようになると、最初はさすがに、
「いずれは、プロになりたい」
と考えるのは、当たり前のことだった。
小説というものを書こうと思うと、まずは、
「最後まで書けるかどうか」
というのが、最初の壁であった。
たいていの人は、途中で行き詰って、書くのをやめてしまう。そして別を作品を考えて、また書き始めるのだが、それも書けない。
一度、書けないという意識に囚われると、
「やっぱり小説を書くのは難しいことで、俺になどできるはずはない」
と考えるのだ。
実際に書いてみると、途中までは何とかなっても、最後の落としどころが一番難しい。途中を書きつないできたことを、最後にまとめるのが難しいのだ。
だから、逆に難しく考えず、辻褄が合わないことでも、強引に終わらせるということを続けていると、そのうちに、終わらせ方がうまくなってくるというもので、一度最後まで書き切ってしまうと、何とも言えない感動のようなものに包まれる。
「俺にだってできるじゃないか?」
という思いが生まれてきて、一瞬でも、
「俺って、天才かも知れない」
と思ったとしても、無理もないことだと感じるのだった。
書き上げた小説は、さすがに知り合いに見せるのは、どこか恥ずかしい。一度、出版社系の新人賞に応募してみたが、案の定、一次審査にも通らなかった。
「もうちょっと、満足のいく小説が書けるようになったら、応募しよう」
と考えていたが、結局、その後もほとんど応募することはなかった。
大学生のこの頃は、まだ、小説をやっと最後まで書けるようになった頃で、書けるようになったことが、自分を有頂天にさせたのだ。
特にその頃は、SF系の小説が好きだった。
ちょうど時代は、SF小説も人気で、映画の原作になるような作品もあれば、どちらかというと、マンガになりやすいような作品が目立っていたような気がする。
壮大な話よりも、学園ものとくっついたような作品が読んでいて楽しく、
「自分も書いてみたい」
と思い、
「どうせ書くのであれば、最近のブームのように、作品の範囲は狭いのだが、考えられるテーマは壮大なものになればいい」
というような、ちょうど当時の流行りのような作品が書けるのではないかと思うのだった。
だが、それがうまくいかないと、
「俺は、やっぱり、他の人と同じでは嫌だと思うような性格だったのだろう」
と思うようになり、SF小説を書こうとは思わなくなった。
その代わり、SFというわけではなく、どちらかというと、都市伝説にあるような、いや、その都市伝説を自分がフィクションとして書き上げることができれば、楽しいと思うようになったのだった。
「最後の数行で、どんでん返しを起こし、読んでいる人をビックリさせられるような話が書けたらいいよな」
というものであった。
ただ、実はそんな中で書いてみたいと思うジャンルの小説があった。それが恋愛小説だったのだ。
普通の恋愛小説という感じではなく、オカルト的な話を織り交ぜたものが書きたかった。
そもそも、小説のジャンルは、チャンポンにしてしまうと、それぞれにタブーが存在し、一緒にしてはいけないものがあったりする。
「探偵小説に恋愛は、向かない」
と言われていたが、それを無視して、敢えて恋愛を組み込んだ作家がいたが、プロなのでできることだろう。
素人には無理だと思うのだった。
恋愛小説は書けないが、ミステリーも書けないと思っていた。しかし、恋愛よりも、ミステリーの方が意外と書けるのではないかと思ったのは、トリック的なものを思いついてから、ストーリーを考えるか、それとも、ストーリーからトリックを考えるかという、大筋二つのところが大きいと考えると、そこから見えてくるものがあると思ったからだ。
松阪の場合は、意外と、トリックを考えるのは、実は苦手ではないと思った。そんなに仰々しいものを最初から考えることはなく、一つのアイデアが浮かんでくれば、そこからストーリーを展開させ、さらに、そこから、新たなトリックが生まれてくるというような、いくつかのルーティンを繰り返すことで、どんどん膨らんでくるような気がしていたのだ。
それが、ミステリーの醍醐味であり、楽しいところである。
ミステリーというのは、いくつかの法則のようなものがある。
法則というより、戒律というべきか、
「してはいけない」
という作法があったりする。
例えば、最後の謎解きのシーンで、犯人がやっとそこで出てくるというような話は、まるでサッカーのオフサイドのような反則行為と言えるのではないだろうか。
または、小説の内容で、本当の犯人を、いかにも犯人ではないという言い方で読者を欺いてしまってはいけないだろう。
ただ、それも、ぎりぎりまでは許される。逆に、ぎりぎりのラインで踏みとどまらせるのが、小説の醍醐味だったりする。
犯人となる人間を、最初から、
「その人は死んでいる」
という書き方をしていたとしよう。
普通なら、
「ルール違反だ」
ということになるのだろうが、これも書き方によって、その書き方が、叙述トリックとして、読者を導くことで、素晴らしいトリックになることだろう。
もちろん、それだけストーリーがしっかりしていないとできないことだし、読者を納得させられるだけの文章力がなければ、成立しないといえるだろう。
これは、まるで、海岸に設置してある船着き場などの防波堤近くで、同じ線から車を走らせて、最後までブレーキを踏まずにいられるかという、臆病を競う、いわゆる、
「チキンレース」
のようではないか。
一歩間違えれば、駄作になってしまう作品でも、度胸を持って取り組めば、傑作としてベストセラーとなり、自分を一気に人気作家に押し上げることになる、出世作と言えるだろう。
きっと、ベストセラー作家には、そんな人気作品となる傑作を生みだすタイミングがあり、そのタイミングを的確に見抜き、人気作家として上り詰めていく素質を持っていたという、持って生まれたものがあるに違いないのだろう。
別に松阪にはそんなものが備わっていなくていいと思っている。
「死ぬまでに、一冊でいいから本が出せればいい」
という、
「ささやかな夢」
だったのだ。
だが、それがささやかな夢だと感じるのは、まだまだ松阪が若いからであろう。