起きていて見る夢
それを結びつける架け橋が、夢の世界であるとすれば、今見ている夢は何であろうか?
時々、夢の世界を思い浮かべているが、別にロボット開発にも、タイムマシンの開発委も、興味を持っているわけではない。それなのに、発想が浮かんでくるのは、興味があるというよりも、勉強をしていて、発想がいきついた場所だったからなのかも知れないと感じるのだった。
ロボット開発にしても、タイムマシンにしても、
「将来において、本当に開発されるものだろうか?」
と正直、高校時代にすでに、松阪は疑問に感じていた。
だから、よく夢に見たものだ。
自分で開発している夢であるが、これは、決して正夢などではない。気になっていることで、自分が開発してしまい、
「タブーを破ってしまった」
ということで、自分がどのような罰を受けることになるかを夢に見ているのである。
「ただ、妄想しただけなのに」
と思うのは、あくまでも、寝て見る夢ではなく、起きて見る夢ということでの妄想だということだ。
自分にとって、妄想というのは、
「いったん記憶が途中で途切れて、どこかから湧いてくるようなものに感じる」
というものであった。
そう、この発想こそ、
「並行世界」
と言われる、
「パラレルワールド」
であり、タイムパラドックスを正当化する回答のようなものだと言われているものである。
そんなパラレルワールドを考えた時、思い浮かんでくるのが、
「ドッペルゲンガー」
というものだった。
ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
のことであり、世の中に三人いると言われる、
「よく似た、ソックリさん」
ではないのだ。
ドッペルゲンガーというのは、都市伝説の代表のようなもので、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」
と言われている。
その理由にはいくつか考えられるが、脳の病気であるためだとか、魂が離れるといわれる、
「離魂病・生霊説」
であったり、
「死神、化け物説」
などがある。
それともう一つ言われているのが、
「異次元の自分、未来の自分説」
というものだ。
異次元の自分というのは、つまり、パラレルワールドの発想であり、未来の自分というのは、タイムトラベルで、過去に来た未来の自分を見るという発想である。
ここではタイムマシンなどではなく、ワームホールであったり、自然現象におけるタイムトラベルということであろう。
タイムパラドックスが起きて、自分が生まれてこないということになれば、死ぬのと同じ発想と言えるのではないだろうか。
また、パラレルワールドというのが、実は、
「反物質の世界」
であって、反物質でできた世界で、反物質と物質が出会った時、
「対消滅」
という現象が起き、大量のエネルギーが放出されることで、消滅するという考え方である。
これが、
「パラレルワールドの存在を、理論科学の分野から、解明しようとしている」
という考え方なのだ。
そうやって考えると、世の中には、不可思議なことがたくさんあるのだが、それを一つ一つ考えていくと、他の不可思議なことと、微妙にかかわっていたりして、
「どこかで結びついて、輪になっているのではないか?」
という、一種の循環説が生まれてくるのだった。
さすがに、一瞬でそんなことまで考えられるわけはないが、まるでその時の意識が飛んでしまったり、瞬時の記憶喪失というのは、
「循環する感覚」
なのではないかと思うのだった。
それが、歪な形で絡み合っているのが、
「メビウスの輪」
という考え方であり、その捻じれが、
「裏表という概念を凌駕したものである」
という考えを示しているのかも知れない。
つまり、この循環というものが、裏表を、裏と裏、表と表を結んでいるかのような状態であるとすれば、上っているはずのものが、実は下に下がっていたり、逆に下がっているものが、上に行っていたりする感覚になるのかも知れない。
エレベーターの中で感じる感覚であったり、電車の中で飛び上がった時の、慣性の法則のようなものであったりするだろう。
その時にまた、
「負のスパイラル」
という発想を思い出し、以前旅行で行った、
「井倉洞」
を思い出すのだった。
それにしても、
「俺って、こんなに頭の回転が速かったっけ?」
と感じた。
確かに。SF小説であったり、科学的な本を読むのは嫌いではなかった。さすがに専門書のような難しい話は専門ではないのでよく分からないが、小説に出てくるくらいの話の知識くらいはあるつもりだった。
ただ、最近、
「小説を書いてみたい」
と思い、試行錯誤をしているのだったが、なかなか先に進むことができない。
ちょっとした発想から、話を先に進めることができず、プロットすら、まともに書けないでいた時期が長かった。
それでも、
「プロットはあくまでも設計書にすぎなにので、皆同じ形にする必要はないのさ。だって、表に出てくるわけではない。極端な話、自分が分かっていればそれでいいのさ。マンガのように絵にかいてもいいし、箇条書きでもいい。さらに、あらすじのような書き方でも構わない。書き上げるための材料であればそれでいいんだからね」
と言っていた友達がいた。
「プロットって、絶対に書かないといけないのかな?」
と聞くと、
「絶対ということはないけど、プロットを書いておけば、書きながら迷うことはないからね。だからといって、絶対にプロットのように書かなればいけないわけではない。書きながら、少しずつ変わっていくことだってあるからね。作家によっては、ただの箇条書きから書き始める人もいる。人それぞれというわけさ」
というのだった。
「そんなものなのかな?」
「うん、プロとかになると、編集会議の資料となる場合があったりするから、いい加減なものではいけないこともあるけど、別に読者が触れるものではないからね。そういう意味では、絶対にこうでなければいけないという定型のものはないだろうね」
と言われた。
その友達は、最初からまわりに、
「自分は趣味で小説を書いている」
と公言していた。
正直、松阪はその人のことを、
「すごいやつだ」
と思っていた。
松阪であれば、よほど書く小説に自信が持てなければ、自分から小説を書いているということを公言することはできないだろう。
そんなことを言ってしまうと、きっとまわりは、
「今度読ませてくれよ」
と言ってくるに違いない。
そこには、二つの疑念があった。
一つは、
「この人、本当に読みたいと思ってくれているのかな?」
ということである。
本当は小説など、普段から読んだりしない人で、ただの社交辞令で、
「読ませてほしい」
と言っているのかも知れない。
「今度、返してくれた時に、感想を聞いてみると、なんと答えるだろう?」
と考えると、実にもどかしさを感じる。
もう一つとしては、
「この人に見せて、盗作でもされたらどうしよう?」
という考えだ。