起きていて見る夢
だが、恋愛というのは。何もいまする必要はない。ただ、今意識しないと出会うことのできない人がいるからだと思うのだが、本当にその人と出会わなければ、自分は幸せになれないわけではない。
むしろ、ここで出会ってしまって、勉強が身に入らずに、受験に失敗したなどということにあると本末転倒である。それくらいなら、進学した先で、彼女を見つければいいだけのことだった。
中学時代はそれでよかったが、高校時代は大変だった。
精神面だけではなく、肉体面においても、辛かった。
「身体がムズムズする」
と勉強が手につかなくなっていた。
今から思えば、その時、
「好きな子がいたのかも知れない」
と思った。
どんな子が好きだったのかということは、自分でも思い出せない。しかし、その子への思いが初恋であり、成就しなかったことで、大学に入学できたことで、りほと出会ったともいえるだろう。
しかも、その時に気になっていた女の子が、りほにそっくりなのだ。逆に、りほがその子に似ていたから、りほを意識してしまったのだと言ってもいい。
「りほって、そういえば、どんな子だっけ?」
と、その時の初恋の女の子を思い出せないように、瞬間、りほがどんな子だったか、意識がなくなっていくのを感じた。瞬時の記憶喪失である。
小説の話
瞬時の記憶喪失とは、今までにもなったことがあったような気がしていた。これは、松阪だけに言えることではなく、人を好きになったり、人生の中で何か特別な感情を抱いたりした時になるものだと考えられる。
松阪にはその時、まだどうしてなるのかという理由も、なったことで自分がどう感じればいいのかということも分からなかった。だが、分からないことが悪いわけではなく、分かろうとする気持ちが大切なのだ。
「俺はいったい、どうすればいい?」
と考えた時、この時の感覚がよみがえってきて、自らを助けてくれるのだ。
そんな時のため、そしてこの感覚を忘れないようにするために、
「一瞬という間隔で、記憶を失うようにできているのではないか?」
と考えるのだった。
一度記憶を失ってしまってから、戻ってくると、その時のことが気になって仕方のないものとなる。だから、忘れたくなくなり、忘れることができなくなる。ただ、実際にどのように感じたのかということを理解できるほど、記憶が戻ってくるわけではない。その分、自分を引き付けるものを感じようとする力が大切なのである。
ただ、一つ言えることは、その時はまだ、りほが好きだという感覚ではなかったかも知れない。
「気になる相手」
という感情は間違いなくあるのだが、気になるというのが、好きだということだと確信をもって言えるわけではなかった。
それだけ、まだ恋愛経験があったわけではない。記憶を失ったことで、その時何が起こったのか、自分でもハッキリとはしてこない。好きだと思うことが大切だということを知るのは、さらにそれからしばらくしてのことだった。
その相手が、りほなのかどうか、
「りほであれば、素晴らしいのに」
と感じるのであった。
前の日に見たりほの夢、
「いや、りほだと思った女性の夢」
と言った方がいいのだろうか。
やはり夢の中でも、りほの顔が確認できたわけではない。何か、女の「もののけ」ではなかったか。
夢の中というのは、実におかしなものである。
誰かと話をしているはずなのに、その声が聞こえてくるわけではない。静寂の中で、相手のそぶりであったり、口の動きであったりする、その表情から、何を言っているのかを探るのだ。
さらに、色も分からない。まったくのモノクローム。影だけで、色の濃淡を判断する。色がないので、形だけで判断しようとすると、余計にリアルさを求めることで、恐怖を煽られることもあるだろう。それが、白黒テレビの醍醐味であり、今では見ることのできないが、かすかに記憶の奥に残っている映像を、思い起こさせる。
それがあるから、夢を今の人たちよりもリアルに感じることができるのではないだろうか?
それを思うと、
「夢というのは、モノクロでリアルなものだ」
と感じているのは、白黒テレビのリアルさを知っている。自分たちの世代だけではないかと思うのだった。
だから、
「夢には、色もなく、音もない」
などというと、若い連中は、あっけに取られて、そのまま、こちらをバカにした目で見るかも知れない。
その視線は、完全に上から目線で、
「年を取りたくはないものだ」
と、こちらを気の毒に思うくらいではないだろうか。
「ひょっとすると、記憶を失っていると思うのは、瞬時にして、時代を飛び越え、昔に戻ろうとするかのような能力であったり、逆に未来を一足飛びに飛び越えようとする意志が働き、そこに、反発力が加わることで起こる現象ではないだろうか?」
と、考えるのであった。
その日、りほが自分の前に現れたのを見た時、そんな意識が頭の中にあった。そして、彼女を見た瞬間に、最初は、彼女がモノクロだと感じたのだが、次の瞬間は、彼女以外のまわりがモノクロに見えて、彼女だけが、カラーだったのだ、
それを感じた時。
「世界がまるで凍り付いたかのようだ」
と感じた。
「そうだ、モノクロというのは、世界が止まったかのように見える」
ということであった。
彼女だけが動いていて、まわりは凍り付いてしまったと感じた時、自分が動いているのが不思議に思えたのだ。
だが、その感覚が間違いだと気づいた。
「まわりは確かに凍り付いているようだが、止まっているわけではない。動いていないように見えて、実際には、微妙に動いているのだ」
ということであった。
凍り付いたように見える世界。そこは、自分たちの動きお何百分の一なのか。あるいは、何千分の一なのか、想像もつかない。きっと向こうの世界から見れば、こっちは早すぎて見えるはずもないだろう。
だが、どっちが本物なのかということは分かっている。本物はこっちであり、向こうが別世界なのだ。
なぜかというと、向こうが普通のスピードであるとすれば、こっちは、目にもとまらぬほどのスピードに違いない。そんな早いスピードで動くというのは、それだけ身体に負担がかかり。支えきれないほどのものであると言ってもいいだろう。
我々人間がそこまで強靭な肉体を持っているわけはない。そう考えると、向こうが別の世界になってしまったのではないだろうか?
そんな発想が頭をよぎった。
子供の頃に見た、サイボーグのアニメに、そんな加速装置のついた、サイボーグがいたっけ。そのサイボーグがサイボーグであるゆえんは、
「加速装置に耐えられるために、サイボーグになったのだ」
と感じたものだった。
超能力者でもそうである。超能力を使うには、それだけ強靭な肉体が必要で、自分がその力を使ったために、身体が破壊されたなどというのは、実に本末転倒なことである。それこそ、ロボット開発につながる。ロボット工学のような発想で、しかも、スピードが同じ次元でありながら違っているというのは、相対性理論に結びつく、タイムマシンの発想に似ている」
と言えるのではないだろうか?