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大学時代の夢

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 という屁理屈に至ってしまうのも、都合よく考えるからだった。
 当然、どんなに楽天的な考え方をする人であっても、ここまで考える人はそんなにいないだろう。
 それを思うと、考えすぎて、一周してしまったことで、元の位置に戻ってくるという現象を感じるのだった。
「まわりに合わせる」
 ということが、楽だからそうしたということであって、別にそれが悪いことではないだろう。
 そう思ったからこそ、まわりに合わせる自分でいたのだろうが、一つ言えることは、
「それが本当の自分ではなく、偽りの自分だ」
 ということを思わせることで、言い訳をしてしまう隙を作ってしまうのだった。
 そして、まわりに合わせてしまうことの一番のデメリットというのが、
「自分がなんでもできてしまう」
 という風に感じてしまうということだった。
 人に合わせていると楽しいし、言い訳ができてしまう。そして、その言い訳を正当化もできてしまう。何しろ、
「螺旋階段が上昇していくからだ」
 と考えていたからではないだろうか。
 もちろん、それは屁理屈であり、本当にそう考えていたのか、後になってからだから感じることであった。
 人に合わせていると、楽だというだけではない。楽しいのだ。
「楽と書いて、楽しい」
 とも言うではないか。
 同じ字を書くのだ。楽が楽しいのか、楽しいから楽なのか、これも、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
 というような、禅問答をしているようだ。
 そもそも、
「楽が楽しいのか? 楽しいから楽なのか?」
 という議論は、ナンセンスだといってもいい。
 確かに、どちらも正しいことではあるが、どちらもある意味では正反対だといえるだろう。
 楽をしようと最初から考えるのは、ものぐさな人間なのか、それとも、要領よく立ち回ろうとするからなのかで、最初の入りの幅は広い、しかし、後者の場合は、楽しもうとする場合は、最初から努力によって楽しめる環境を作っておかなければ、楽をすることはできないといえるだろう。最終的には同じところに来るのだろうが、最初が違えばそのプロセスも違うであるから、一概には比較できないということだ。だからこそ、ナンセンスであり、それこそ、禅問答だといえるのだろう。
 だが、人に合わせるということは、楽かも知れないが、果たして楽しいといえるだろうか?
 人に合わせている間は、自分が主導権を握ることはできない。集団の中にいると、自分が輪の中心にいないと気が済まない人、そして、集合写真などを撮る時に、必ず端の方にいて、目立たないようにしようと思っている人のどちらかではないかと最初、須川は思った。
 だが、自分には、人の中心になるだけの技量がないことが分かった。人の中心になるというのは楽なものだと、高校時代までは思っていた。
 会社の社長だって、人から持ち上げられて、それでいて高い給料がもらえて、それによって、家政婦さんなどを雇ったり、大きな家に住んで、気楽に生きられると思っていた。責任があるものだと思っていなかったし、皆が社長を目指すのだから、
「結局皆楽したいんだ」
 と思っていた。
 だが、一番の見落としは、社長というのは、従業員に対して責任があるということである。
 会社の事業が失敗すれば、借金に塗れてしまったりするではないか。時には自分が悪いわけではないのに、従業員が行ったミスや犯罪も、自分の責任として、世間に謝罪をしたり、下手をすれば、辞任に追い込まれたりすることだってあるではないか。
 そのことを徐々に分かってくると、
「出世に何のメリットがあるのだ?」
 と考えるようになった。
 大学を卒業してから、社会人になってから、出世の理不尽さについても知るようになる。昔からドラマなどで、
「出世のために、まわりを蹴落としたりしていたのを見ると、どんだけ出世というものがいいものなのか?」
 と考えていたが、
「出世なんて、給料は見た目は上がっていくのだが、それでも、課長以上には、残業手当は一切支給されない。しかも、部署によって忙しさにばらつきがあり、下手をすれば、一人に仕事が集中してしまうこともある。自分がその一人になることもあるだろうし、なんといっても、出世をすれば、それに比例して責任が重大になるのだ」
 ということだ。
 まるで相撲の世界の番付を思わせた。
「三役と呼ばれる、関脇、小結以下は、勝ち越せば昇進、負け越せば、今の地位の陥落なのだが、大関になると、2場所連続で負け越せば、陥落となり、横綱に至っては、どんなに負け越しても陥落はしないが、勝てなくなると、あとは引退しか道は残されていないのだ」
 ということである。大関になるにも横綱になるにも、ただ勝ち越しただけではダメだ。ある程度の実績が数場所続き、評議委員会が承認することで、推挙され、それを受けるという形になるのだ。一般社会とは少し違うが、責任が重くなるという意味で、比較対象になりうるものであろう。
 大学に入学してすぐの頃などは、そんなこと分かるはずもない。当時は、大学に入学すると、それまでどんなに勤勉に勉強していた人間も、大学という甘い環境に嵌ってしまい、その沼から抜けられなくなるという話を聞いていた。
 須川のように、
「勉強をしたいからというよりも、楽をしたいから」
 という理由で入学したようなやつは、本当に遊ぶことしか考えないのかも知れない。
 それはまわりが感じるよりも何よりも、自分で分かっていたのだった。
「親は、お前を遊ばせるために大学にやったんじゃない」
 あるいは、
「同い年の子で、就職した子は、今頃社会の荒波に揉まれて、必死に大人になろうと努力しているんだよ」
 などと言われて、説教する大人もいるが、そんなことを言われれば言われるほど反発してしまい、
「そんな、誰にでも言えるようなことを、あたかも正義感ぶっていうんじゃないよ」
 と心の中で思っている大学生もいることだろう。
「大学生にだって、その中の社会で一生懸命に生きているんだ」
 と思っている人もいる。
 確かにそうだろう。大学時代の友達は、社会に出てから、大人になってからの宝になるという人だってたくさんいる。何よりも、大人がそういうのだ。
「大学というところは、確かに勉強も大切だけど、どれだけいい友達を作ることができるかということが大切なんだ。その友達が一生の財産になるんだからね」
 といってくれる人もいる。
 同じ大人で、こうも大学生を見る目が違うんだ。
 皮肉をいう人の中には、いろいろな事情で、自分が大学にいけなかった人もいるだろう。家庭の事情という人もいれば、自分が大学に入れるだけの学力がなく、浪人を続けた挙句、大学進学をあきらめた人だっているかも知れない。 そんな人たちが大学生を羨ましく見ているのは当たり前のことで、そんな彼らにとって、
「自分の嫌いな大学生って、どういう学生なんだい?」
 と言われることもあるだろう。
 そこで、よく言われるのが、
「四年間を無為無作為に過ごす人」
 という答えが多いことだろう。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次