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大学時代の夢

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 そうなると、いい意味で神経の図太い人間には、バネになって力になるのであろうが、そうではない、一般の精神的にやっとこれから大人になろうとしている発展途上の人たちには、
「出る杭」
 として、
「打たれる」
 ということになるに違いない。
 それを思うと、入社から数か月で、かなりの人間が挫折して、退職していくかということが分かるというものだ。
 会社側もそれを見越して、たくさん受け入れる。つまり、ついてこれない人間に対しては、辞めていくことを辞さず、残った人間しか大切にしない。完全に捨て駒でしかないのだ。
 そういう意味では、須川の進学というのは、正解だったのかも知れない。臆病というのも、時と場合によっては、
「慎重だ」
 と見なされるのだ。
 だが、須川に友達ができたといっても、そのほとんどが、朝の挨拶を交わす程度のものだった。
 それでも、高校時代までには、そんな友達など一人もおらず、自分が、友達に飢えていたということを証明するものであるのは間違いないことだった。
 しかし、それは皆同じだったということに気づかなかったことにあった。それは自分だけではなく、まわりの人も同じだった。だから友達になれそうな人を拒む理由も勇気もあるはずがない。
「来るものは拒まず」
 という気持ちが態度にあって現れ、嫌いな人など一人もいないという感覚になるのだった。
 高校時代が、どうして皆あれほど警戒心が強かったのだろうか?
 一人がそうなら、皆そうなのだろう。だから、大学生になって一人が友達を作ろうとすると、皆右に倣えといって、同じ方向を向くかのように、友達の輪が膨れ上がっていくのだった。
 そんなまったく正反対の自覚が、高校生から大学生になったとたんに開けるというのだろうか? もし大学に入学できずに予備校に通うようになっても、予備校では、高校時代ほど暗いという人はいないと聞いている。
「意外と予備校仲間と一緒に、いろいろ出掛けたりもするんだよ。もちろん、受験が真剣になってくると、それどころではなくなるんだけどね。だからこそ、その短い時間を皆で共有して楽しむんだ。一度受験というものを経験したからなのか、それとも、受験という共通の壁にぶつかったという気持ちがあるからなんだろうかね? 大学生が友達を作るのと、明らかに違う絆があるんだよ」
 といっていた人がいたが、その人は決して、その絆が大学生よりも強いとは言わない。
 言わないでも分かるということなのか、言ってしまうと、その価値が失われてしまうという意識が強いからなのか、疑問に思う部分があったりするのだ。
 ただ、大学に入ってからの友達というのは、皆。受験を乗り越えて、一種の成功者ということなのだろうが、友達になる際に、そのことを意識して口にすることはない。まるで、触れてはいけないことのような感じではないか。
 それはきっと、そのことを理由に友達になったということを認めたくないのだろう。それよりも、大学生で友達になるのは、もっと自然に、
「友達になりたいと思ったからであり、他意のないことだ」
 ということを証明したいからなのかも知れない。
 それを思うと、
「本当に大学生になってからの友達というのは、どこまでの絆なのか分からない」
 と感じる。
 それだけに、友達のいうことは、必要以上に信じようと思うようになった気がするのであった。
 というのも、相手のいうことを聞いてあげないと、せっかく友達になってくれたのに、すぐに失ってしまうような気がするからだった。
「あれだけたくさんの友達が一気にできたのだから、一人くらい失ったからといって、どうってことはない」
 と普通なら感じることだろう。
 しかし、実際にはそうではない。
「一人が二人になり、いつの間にか自分のまわりから一気に人がいなくなってしまったとしても、今までの自分だったら気づかないだろう」
 と感じるからだった。
 油断というのとは少し違っているのかも知れないが。それよりも、
「一人くらい」
 という思いが、気が付かないうちに、感覚をマヒさせてしまい、後になって後悔することになると、取り返しがつかないことになるというのを、今から自覚しているのかも知れない。
「夢で見たような気がする」
 と、須川は感じた。
 友達を一気に失うという妄想に駆られていたのは、夢に見たからだった。
「怖い夢というのは、目が覚めるにしたがって、意識が戻ってきたとしても、忘れることはないらしい」
 という自覚があるからだった。
 友達を失うことが怖いのか、それとも、入学前の心境に戻り、もう一度再スタートさせたとしても、そこにあるタイムラグはどうすることもできず、
「時を戻すことはできない」
 ということを、思い知るに違いないと感じるのだった。
 そんなことを思っていると、結局友達を一人でも失うことが怖くて、いつの間にか、
「まわりに合わせてしまう」
 という性格が身についてしまった。
 自分がものぐさで、次第に考えることを辞めてしまうという性格が、いつの間にかしみついてしまったようで、まわりに合わせるのが一番いいと感じるようになった。
 その理由は、ひと言、
「楽だから」
 である。
 楽をするということがどういうことなのか、一度ものぐさになると分かってくる。それは、逃げることを怖いと感じなくなるからだった。
 怖いと少しでも思えば、人間は無意識に、怖いことから逃げようとする。しかし、その逃げようとすることが、
「逃げることだ」
 というのは、何とも皮肉なことである。
 当然、自分が逃げることが怖がることをするというのだと考えると、身動きが取れなくなる。本当はそれが一番怖いことのはずだったのに、それを知ってしまうと、結局楽な方に身を任せてしまうのだ。
 身動きが取れなくなるということが一番怖いということを、考えなしに感じたことをそのまま信じたはずなので、今度は、余計なことを考えないようにしようと思ったことが招いた考えなのかも知れない。
 それが言い訳になって、言い訳することが、一番の近道になるのだ。何に対しての近道なのかが分からないこともあって、またしても、楽な方に流れてしまう。
 納得することが自分のモットーだということを理解しているはずなのに、考えと行動が合致しないというジレンマが、
「まわりに合わせる」
 ということに繋がったのだろう。
「あの人が言ったから」
 といってしまえば、それが自分の考えでないことの言い訳として通用するとでも思ったのか、そう考えてしまうのだ。
 考えれば考えるほど、
「負のスパイラル」
 に嵌ってしまう。
 だが、このスパイラルというのは、本来は螺旋階段という意味である。負のスパイラルはというのは、ずっと下を向いて進んでいる螺旋階段ということだ。しかし、スパイラル自身を、
「負のスパイラル」
 という言い方をするということは、
「負の「負の螺旋階段」」
 と言っているのと同じではないかと思うのだった。
 つまり、
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
 という発想から、
「負のスパイラルというのは、上昇の螺旋階段ではないか?」
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次