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大学時代の夢

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「左右対称と一緒に考えればいいだけど、それは自分の視線を鏡に映っていないもの。つまり、前を向いているが、背中を見ていると考えれば理解できるのではないか?」
 という説があるが、それがどうも一番しっくりくるような気がする。
 鏡というものが、過去からずっと神秘的に考えられているのは、左右が対称であるということよりも、ひょっとすると、上下がさかさまにならないことの方を神秘的だと考えているからなのかも知れないといえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「裏表という発想が、背中合わせだという考え方であったり、長所と短所のように、紙一重だと思うのは、鏡というものを媒体として見ているか、神秘的なものとして見ているのか?」
 ということに尽きるのではないだろうか。
 それを無常を一緒に考えて、裏表を見ることに、夢が関わっているような気もしてきた。
 ちなみに、これは、
「無常であり、無情ではない」
 そこに、情けは存在しない。
 そのことを考える必要というものがあるのではないだろうか? あくまでも、自然の摂理に近い考えなのである。

                 人に合わせる性格

 高校時代に、自分の中でものぐさな性格と、無常という言葉から、ネガティブな発想に目覚めることになった須川が、何とか大学に入学できたことは、まわりの人に、ホッとした気持ちを味わわせたといってもいいかも知れない。
 本人は、とっくの昔に自分のことなど、まわりの人は見限っていたと思っていたが、意外とそうでもないようだった。
 大学生になったことが、自分でも信じられないという思いもあった。その思いが、何をするにおいても、
「ひょっとすると、それまでとまったく違った毎日になっているのではないか?」
 と考えるのであった。
 裏表についていろいろ考えていたが、ある時、
「裏の裏は表なんだ」
 ということに、ふと気づいた時、思わず、噴き出してしまった気がした。
 これだけいろいろ難しいことを考えてきたのに、
「そんな簡単なことにいまさら、なぜ気が付かなかったのか?」
 ということである。
「マイナスにマイナスを掛けると、すべてがプラスになる」
 ということである。
 これは、割り算でも同じことで、得意な算数レベルの問題である。そのことを考えると、加減方では、そうとは限らない。
「マイナス同士の差は、マイナスの小さい方が引かれるはずだとすると、プラスになる」
 ということである。
 だから、一概には割り切って証明することはできないが、裏表を乗除と考えるならば、この考えはすべてを満たしていることになる。
 そういう意味で、今までそんな簡単なことに気づかなかったというのは、
「乗除だけではなく、加減まで一緒に考えていたから、結論が得られなかったのだ」
 と考えると辻褄が合うだろう。
 そう思っていると、
「物事は、そんなに難しく考える必要はないんだ」
 と思うようになった。
 ものぐさだった頃のことを忘れたわけではないので、楽観的に考えることに、苦はなかった。
 それを思うと、
「もっと気楽に考えればいいんだ。歯車だって、潤滑油があることで、滑らかにそして、自然に動くことができるではないか。もっと言えば、遊びというニュートラルがどれだけ必要か?」
 ということではないのだろうか?
 そう思うと、まず自分に足りないことを考えてみると、これまた単純であるが、
「友達がいないこと」
 だったのだ。
 普通だったら、簡単に思いつくのだが、なぜ思いつかなかったのかというと、
「友達がいないことで、何が自分にとって損なのか?」
 という発想がなかったからだ。
 つまりは、
「損得勘定」
 という発想が、最初から自分に備わっていなかったのだ。
 そもそも。ものぐさな人間に損得勘定などあるわけもない。
「損得勘定は、悪だ」
 と思っていたからだ。
「では、何が悪なのか?」
 と言われても答えようがない。
 ものぐさなのだから、損と得というものを、見えない天秤に架けて、無意識に平衡感覚にしてしまっていたのだから、それも当然のことであろう。
 そのことを考えもせず、無意識になっているということから、いかに自分がものぐさだったかを思い知らされるのだったのだ。
 大学に入って、
「友達がほしい」
 と思ったことは、自分の中で、
「友達がいない」
 ということを飛び越して考えるということだったのだ。
 友達がいないということにいまさら気づくというのは、それだけ、友達というものに対して意識が薄かったということなのか、それとも、友達を作ることを怖がっていたのか。
 もし怖がっていたのだとすれば、そこには
「裏切られたくない」
 という思いが隠れているのであり、それが、先見の明であるかどうか、見定める必要はあるのかも知れない。
 そういう意味では、
「やみくもに友達を作るものではない」
 と考えるべきなのだろうが、実際にはそうではない。
 友達を作らないということは、友達がほしいからだという単純な思いだけではないように思ったからだ。
 しかし、実際に友達を作ろうとしてみると、これが意外と面白い。面白いというのは、
「面白いほどに、友達ができる」
 ということだった。
 それは、表面上のことだけなのかも知れないが、高校時代までのように、
「まわりは敵だらけだ」
 という意識からか、こちらから近づけば、必ず警戒されたにも関わらず、今度は近づけば、相手は喜んでくれる。
 それはそうだろう。自分から近づくこともなく相手から寄ってきてくれるのだ。特に、いざとなったら、何を話しかけていいのか分からないと思っている人にとっては、救いの神と言ってもいいだろう。
 自分から動かなくても、まわりが動いてくれる。
 それが大学というところなのだろう。
 だが、次第に引っ込み思案になっている自分から動きたいと思うようになる。なぜなら、そういう人に限って、高校時代までは、
「自分は環境さえ整えば、友達なんかすぐにできるはずだ」
 と思っていて、しかも、それを自分から率先してできると思っていたのだ。
 それができないと気づくと、それまでの自分が、すべて否定されたような気分になり。そこから生まれるのが、
「負のスパイラル」
 である。
 大学入学というのは、それまで知らなかった。いや、知ろうとしなかった自分の性格を、まるで鏡を見ているかのように映し出された状態になるものなのかも知れない。
 だが、その大学というところは、そんな自分を救ってくれる人がたくさんいる場所でもある。
「大人になるということは、そういう仲間をたくさん作ることだ」
 と思うと、就職せずに大学に行ったのは正解だったと思うのだった。
 では就職していれば、どうだろうか?
 確かに、本当の自分を知り、負のスパイラルに落ち込むというのは、大学入学と同じことだが、社会においては、先輩というのも、
「昔の自分も先輩の愛の鞭を受けることで這い上がってきた」
 という精神論を盾に、力ずくで押し上げようとするだろう。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次