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大学時代の夢

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「覚えていたとして、それが頭から離れないと、反動が起こった時に、耐えることができなくなるからではないか?」
 と思うからであった。
 生きていくうえで、無常ということから離れることはできない。だからと言って、無常ばかりを気にしていては、先に進むこともできない。
 無常の表裏の発見は、そのジレンマに一石を投じることで、納得したうえで動くことができるという証明になるだろう。
「自分が納得するということは、自分で証明してみせる」
 ということであり、証明は、何も自分がしなくてもいい。
 導くことだけでもいいという考え方であった。
 高校時代に、無常を教える学問があるというのも、どうかと思うが、それを自分なりに理解して、無常を受け止めたうえで、その表裏性を証明することが大切なのだろう。
 たぶん、ほとんどの人は、無常の何たるかすら分かりはしないだろう。だからこそ、歴史というものが嫌いなのであり、歴史をただの暗記物として考えることで、覚えられないことを、どのように解釈するかが本当は問題なのに、それにも蓋をするのであった。
 覚えられないのは、その時代を輪切りにして、平面ですべてを理解しようとするからだ。何かの事件があれば、その前後、つまりは、きっかけがあり、そして結果がある。結果というのはあくまでも現在であり、それ以降というのは、その影響ということである。
 これは社会人になると。自然と分かってくるのに、なぜ学生という一番柔軟な頭が理解できないのか。それが、
「無知の、無知たるゆえん」
 ということなのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「夢にも裏表があるのではないか?」
 と思うようになった。それは怖い夢を見ながら、その間に楽しい夢がこっそり挟まっていたり、逆に楽しい夢の中に楽しい夢が挟まっていたりという、いわゆる、
「能と狂言のような関係」
 つまり、真面目なものの間に、おふざけを追加して、観客の気持ちや場を盛り上げるという他に、芸術のふくらみを横に感じさせるような感覚に影響していると感じるものであったり、
「抹茶とお茶菓子」
 のように、苦いお茶に対して、
「お茶の美味しさを引き立て、見た目の美しさや季節感、おもてなしの気持ちを伝える役割がある」
 と言われている。
 それぞれ、裏表があれば、見た目や雰囲気だけではなく、
「相手を納得させられる理由」
 も存在するということで、実に大切なものだといえるのではないだろうか。
 夢の裏表を考える時に、夢自体の裏表なのか、夢を見る人間の裏表なのかということを考える必要もあるだろう。
 夢自体の裏表というと、前述のような、楽しい夢の間に、いきなり怖い夢が入ってくるような、
「夢の途中で、どんでん返しが起こる」
 というような場面である。
 この場合、夢が一つであるかどうか? つまり、繋がった夢なのかどうかということも大きくかかわる。どちらにしても、潜在意識が関わってくるからである。
 それとは別に、
「夢を見る人間の裏表」
 というのは、どういうものなのだろうか?
 そもそも、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
 という話があるではないか。
 潜在意識の裏表というと、パッと思いつくのは、
「二重人格」
 ということであろう。
 そして、具体的な話として頭に浮かぶこととして、ほぼ同時くらいに、
「ジキル博士とハイド氏」
 の話を思い出すのではないだろうか?
 この話は、ジキル博士の開発した薬が、自分の中の潜在的にあるもう一つの性格を表に出すというだけのものだったのだが、それが飲みすぎが影響したのか、それとも、裏に潜んでいるもう一つの、「悪」の部分の、眠っていた性格が覚醒したことから歯止めが利かなくなってしまったことから来る悲劇なのか。
 元々、作者のスティーブンソンは、ジキル博士が自分の中に、悪が潜んでいることを分かっていて、
「完全なる善意をもってすれば、完全なる悪意を消し去ることができる」
 という信念を持っていた。
 そこで開発した薬を誰で人体実験を行うかということを考えていたが、まわりから反対されたことで、自分で人体実験をすることを考えたのだ。凶悪化したジキルはハイドとなって、屈辱の目に遭わせた人たちを手にかけ、女を蹂躙していき、自分のものにするという快感を知った。
 そして薬なしでハイドになる自分が、凶悪であることを知らなかったが、やがて知ることになるというお話である。(ネタバレになるのでここまで)
 この話ではいったい何が言いたいのか?
 聖書における、
「バベルの塔」
 の話のように、
「神のような能力を人間が持とうとするというのは、悲劇しか生まない」
 という、宗教的な側面なのか。
 それとも、
「悪と善はしょせん違うもので、悪を懲らしめる善という勧善懲悪は、理想でしかないのではないか?」
 という倫理的で、モラルの発想なのか。
 または、人間が自分の中にある無意識なる潜在意識を薬の力を使って、表に出そうすることが、科学への冒涜になるという、これから発展されてくるであろう科学に対しての警鐘なのだろうか?
 そのどれらも、説得力があり、そのすべてを作者が意図したものなのかまでは分からないが、少なくとの読者にそれを考えさせる力を持った作品であるということは間違いのない事実なのである。
 夢による裏表であったり、ジキル博士とハイド氏のような物語における裏表の存在であったり、いろいろ考えられるか、少なくとも、この二つに関しては、潜在意識というものが働いているといえるだろう。
 また、裏表という意味で、
「長所と短所」
 というものがある。
 これも、
「善と悪」
 というようなものと似ているが、ここでいう
「ジキルとハイド」
 の影響として考えられることとして、この長所と短所を考えた時のように、
「紙一重である」
 という考えも成り立つのではないだろうか?
「長所と短所は、紙一重である」
 という言葉もあるが、それはあくまで、
「表と裏はくっついている」
 という発想から来るのではないだろうか?
 この考え方が、
「鏡の見え方」
 というものに影響しているのではないかと思われる。
 というのは、鏡の見え方として、
「左右は対称に見えるものだが、上下は対称には見えず、上下はひっくり返ることはない」
 というのは、誰もが認識していることであろう。
 しかし、
「左右が対称になるのに、どうして上下が対称にならないのか?」
 ということに、疑問を持つ人は結構少ないのではないだろうか?
 子供の頃から、
「鏡というのはこういうものだ」
 と教えられたものであるから、鏡の特徴を、
「左右が対称に見える」
 ということをまるで不思議なことのように捉え。上下が普通に映っていることを当たり前だと考えていた。
 しかし、左右対称が当たり前だと考えるならば、どうして上下が逆さにならないことを疑問に思わないのか。実におかしな考え方だといえるだろう。
 左右対称というのは、当然のごとくのように説明されているが、上下に対してはハッキリとした理由は科学で証明されていない。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次