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大学時代の夢

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 もちろん、誰にも迷惑が掛かっていないということが前提なのかも知れないが、極端な話、世の中に失望して、生きていくことに価値も興味も失ってしまった人が、誰にも頼ることなく、食事をすることさえ億劫になって、そのまま衰弱して死んでいったとして、
「なんて、ものぐさなんだ」
 と言って非難できるだろうか?
「誰にも迷惑をかけていない」
 といえるかも知れないが、死んでしまった後始末を必ず誰かがしなければいけないわけで、ただ、それも承知で死んでいったとすれば、ある意味、
「潔い」
 といえるのかも知れない。
 あるいは
「これこそ、ものぐさの境地であり、死ぬことを怖がることもなく、人知れず死んでいったのだ。もし、その人が死んで、悲しむ人が誰もいなければ、最高の断捨離だったのではないだろうか?」
 ということで、潔さと言えるようにも思える。
 もちろん、人それぞれの考え方なので、何とも言えないが、人それぞれというのであれば、
「この場合の死んだ人間を、とやかく言える人間が果たしてこの世に存在しているだろうか?」
 といえるだろう。
 そうなると、
「人を非難などできるわけはない」
 という究極の考えに至ってしまうのは、いいことなのか悪いことなのか?
 そもそも、人の善悪を他人が判断できるものなのだろうか?
 そんな須川が何とか大学に入学すると、三流とまではいかないが、自分では二流と思っているところに滑り込むことができた。そもそも受験勉強など真面目にもやっていなかったので、大学に入学できたとしても、正直、嬉しくはなかった。
 それは、あくまでも、達成感が足りないという意味だけで、入学できなければ、働かないといけなくなり、それはそれで嫌だったのだ。
 ただ、達成感がないと、
「バラ色のキャンパスライフ」
 などというものは、まったくの絵空事でしかなく、入学した意味がどこにあるのかという、最初からマイナス意義しかないということになるだろう。
「負のスパイラルは負しか生まない」
 と自分で認識していることもあって、自分にとっての最高潮が、
「現状維持だ」
 と思っている。
 ここからいい方に進むとすれば、それは運しかないだろう。運よく上昇気流が吹いていれば上に上がっていくし、吹いていなければ、落ちていくだけだ。自然任せの人生、まるで、風まかせであり、格好よく聞こえるが、要するに逃げているだけである。
 これが、人生終わりくらいになると、本当に潔いといえると思うが、まだまだ人生これからだと、どうにでもなるというものだ。
 ただ、これは、最初から、
「最高潮は、プラマイゼロだ」
 と思っている人間だから言えることで、
「大学入学が、人生の岐路であり、ここからが上昇するだけだ」
 と思っている人にとっては、人生の終わり、あるいは、定年間近の人が考えたとすれば、
「何が潔いといえるのか?」
 ということである。
 この年齢を目指して、どんどん上に上がろうと思っていたのだから、今から見上げたとしても、はるか遠く、そして高いところにいるはずではないか。見上げても見ることもできないほどの天井、それこそが、生きがいというものではないか。
 だが、須川は、人生の終わりはそれでいいと思っている。一つの理由として、
「人間の欲には限りがない」
 という考えだった。
 上を見れば見るほど、上がっていけば行くほど、さらにそこに先があることを知って、愕然とし、その時点で人生に失望するのは嫌だという考え方だ。
 最初から、そんなものは存在しないと思っていると、気が楽ではないか。
「どこまで行っても先は見えない。追うだけ無駄だといえるのではないか?」
 ということである。
 それに、よくいうことわざで、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 というではないか。
 元々は。慢心を戒める言葉として使われるのだが、目指せば目指すほど、先が見えないという、
「無常」
 を表しているといってもいいのではないか。
 つまり。一つの戒めの言葉には、その裏が潜んでいて、まったく逆から見れば、まったく違ったものが見えてくるのではないかという考えも成り立つというものだ。
 無常というのも、その一つで、歴史や古文の授業で習った、
「平家物語」
 諸行無常という考えがあるが、これは、
「形あるものは、必ず滅びる」
 というものだ。
 これはある意味、無常ではあるが、逆に考えれば。
「滅んでしまえば、生前どのような栄華を誇った人間であっても、最後には平等に土に返るだけだ」
 ということである。
 宗教というと、死んだ後の世界に、この世で満たされなかった思いを託すという意味のものであるのが、本来のものであるはずなのに、滅んでしまうと土に返るだけという考えは、肉体に対してのことであるのに、まるで魂も一緒であるかのように勘違いされるであろう解釈は、宗教というものに対して。矛盾しているということになるのではないだろうか?
 それを思うと、やはり無常には、表裏それぞれの面があるといってもいいのではないだろうか?
 だが、須川という男、それほど、ネガティブに考えるタイプではなかったはずだ。
 というよりも、ここまで、被虐的になり、投げやりでもなかったと思う。まるで、人生に失望した人間であるかのようなこの性格は、いったい、いつから育まれたものだったあのだろうか?
「ひょっとすると、前世での記憶が潜在意識として残っているから、潜在意識や夢というものを意識するようになったのだろうか?」
 と考えてみた。
 夢というものや、妄想には興味があった。元々、須川は、
「何もないところから、何かを作るのが好きな性格だ」
 と自分で思っていた。
 人が作ったものを利用したり、それで何かを達成したなどと考えることを、罪悪だとすら思っていた。
 考え方にかなり偏りがあるのは分かっている。しかし、個性のない考え方からは、何も生まれないと思うのだった。
 そう、ここでも、まず頭に浮かぶことは、
「何かが生まれる」
 ということである。
「生み出すことがすべてであり、生み出されなければ、極端に言えば、生きている意味はないとまで言えるのではないだろうか?」
 とまで考えていた。
 だから、今の生活をしている限り、自分が興味のある、唯一の生きがいと言える。
「生み出すこと」
 というのを得ることができず、その結果、ネガティブな発想にしかならないのだ。
 だが、それも、
「無常というものに、表裏がある」
 という考え方が生まれてから、だいぶ変わってきた気がするのだ。
 ネガティブになればなるほど、その反動が生まれてくるのを、ある時期から感じていた。自分が、何かから逃れようとする、
「逃げ」
 という発想を抱いているからではないかと思ったが、そうでもないようだ。
 実際に、ポジティブに考えることを楽しいと思うようになり、それが、
「無常における表裏の存在」
 であるということに気づいたからだろう。
 だからといって、すべてを楽天的に考えてしまうと、その反動が計り知れないことも分かっている。
 だから、
「夢で、楽しい夢を見た時覚えていない」
 という理由付けに、
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次