大学時代の夢
だから、発生しないようなことを想像することも、妄想することもない。そもそも、妄想、想像の世界のリアル化したものが、夢の世界だからである。
つまり、夢の世界に、妄想、想像などという概念は存在しない。存在するとすれば、超意識を持った、もう一段階上の世界なのではないだろうか。
その世界というのは、もはやこの世の世界ではない。神や仏の領域として、いわゆる、
「あの世」
でなければいけないのではないだろうか?
作者はそんなことを、考えながら先に道を作っていくと、そんな結論を導いた。
いや、厳密にいえば、
「結論を導くための、途中の段階の結論」
といえるだろう。
どれほどの段階が控えているのかは分からないが、その間に死というものが絡んでいるのではないかとも思う。
そうなると、
「夢というのは、魂だけになっても見るものなのか?」
とも考えたが、そもそも、夢が死後の世界を彷彿させるものだと考えると、ある程度の納得がいくものなのかも知れない。
とにかく、あくまでも、本当に言われている定説が他にあるのかも知れないが、作者の中での夢という感覚を考えた時、このような結論になるのであった。
無常の表裏
大学時代のことだった。
須川正樹は、一年生の頃、
「まずは、友達をたくさん作ること」
と目指していた。
小学生じゃあるまいし、
「友達百人できるかな?」
などという歌詞が思い出される。
高校生の頃までは。友達がほとんどおらず、いなかったというよりも、自分から近づいていかなかったというのか、友達になりたいような人がいなかったのだ。特に高校時代は、開放的な連中は、校則を破るような連中ばかりで、自分がその輪の中に入ってしまうと、
「俺の人生が終わっちゃうんじゃないか?」
というほどまで考えていたのだ。
最低でも、どこかの大学に引っかかるくらいのことがないと困るということまで考えていて、中には、
「受験さえすれば、どんなに成績が悪くても、合格できる」
と言われるほどの大学にまで行きたいとは思わないが、せめて三流と言われる程度の大学にまで引っかかってくれればいいという程度のレベルの低い進学を目指していたのだ。
だからと言って、本当に三流でいいなどと思っていない。
そもそも、どのレベルが三流大学なのかという、疑問を持っていて、大学にレベルをつけるということが理不尽であると思いながらも、
「せめて、二流でもいいから」
という、考えるたびに、矛盾だらけの発想が頭に浮かぶのだった。
だから、受験勉強をすることが、そのまま孤独であると思っていた。
孤独をたぶん、自分も含めてであるが、皆嫌だと思っている。しかし、孤独に打ち勝ってこその受験戦争だという、誰が言ったのか、責任者を言及したいという思いを持ちながらも、
「なぁなぁでは受験に打ち勝つことなどできるはずがない」
と、断言できるほどに考えていたのだ。
受験というものを、
「大人になるための、登竜門」
という感覚で思っている人がどれだけいるだろう?
須川は、少なくともそう思っていた。
そうでも思わないと、本当であれば、親友であったり、人生を歩んでいくうえで、貴重な同年代の仲間であるはずのクラスメイトを、友達としてではなく、受験生としては、ライバルとして見なければいけないことへの、納得のいく理由付けになるわけではない。
何とか自分の中で、受験生としての立ち位置で、まわりの人をライバル視しなければいけないその理由をどう、納得できるように解釈できるのかということを考えなければいけないのかということになるのだ。
もちろん、皆同じ大学を目指しているわけではない。
しかし、中学から高校受験をした時、ある程度、中学生の時点で、同じレベルの人たちが集まってきているはずなので、レベルはそれほど違ってはいないだろう。
だが、高校受験において優秀な成績、進学校と言われるところを目指していた人が入学した高校は、実際に、レベルの高い学校なのだろう。
それだけに、中学時代までは、絶えず成績優秀で、上を見ても人がいないので、下を見下げることしかしてこなかった人間が、高校に入れば、今度は皆自分よりもレベルが上か、ほぼ同等の連中になるのだ。トップ集団が襟すがれて集まってきたのだから、最初こそ、
「トップ集団の仲間入りだ」
と喜んだのだが、実際に自分がその中でどれほどのレベルなのかということを思い知った瞬間、愕然としてしまうのは、当然のことであろう。
幸い、そこまで中学時代に成績優秀だったわけではないか、一般的な、
「中の上」
といったくらいのところにいたのだから、一般的な高校に入学した。
その頃には、勉強にも興味はなく、クラブ活動をしているわけでもなかった。要するに、何に対しても無関心で、やる気のない生徒だったということである。
高校二年生になったら、大学受験が控えているということも分かっていたし、
「就職はせず。とりあえず、進学しよう」
と思っていた。
その理由は、
「まだ、楽をしたいから」
というもので、そもそも、楽をするということがどういうことなのか分かってもいなかった。
大学にいくと、楽しいキャンパスライフが待っているということを頭に描いていて、描いてはいるくせに、具体的には何も分かっていなかったのだった。
本当に、何もすることが浮かんでくることもなく、それこそ、
「つれづれなるままに」
そんな感じの生活しか思い浮かばなかった。
「そういうのを、ものぐさというのだ」
ということだと理解し、ものぐさというものを調べてみたが、
「物が臭い」
というところから来ているということ。
ものぐさの言葉の意味は、面倒くさがりであったり、無精であるということなのであるが、
「臭い物」
というものが、本当に匂いがきついという言葉だけではなく、
「怪しいもの」
というような意味で使われることから、病気で体調が悪かったりした時に、身体を動かすのが億劫に感じたりすることで、面倒くさく感じたり、無精になってしまうことから来ているということであった。
だが、面白いもので、無精だ、面倒くさいと自認している人間が、その言葉について知ら寝ることをいとわないというのだ。
要するに、
「自分に興味のあることなのか、ないことなのか」
で分かれるということだ。
興味のあることには、必要以上な努力を惜しまないが、興味のないことであれば、本来ならしなければいけないことにまで、全く手を付けない。
それをものぐさと言えるかどうかであるが、厳密には違うのではないだろうか。
しかし、興味のあることに尽力を惜しまないというよりも、しなければいけないことをしないことの方が目立ってしまえば、それはものぐさだと言ってもいいのではないだろうか?
ただ、それも人それぞれで、自分が違うと言っているとすれば、それを、
「ものぐさだ」
と言って、避難できるだろうか?