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大学時代の夢

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「決して、それぞれ犯してはならない領域が存在しているのかも知れない」
 と感じるのであった。
 数学は嫌いだったが、算数が好きだったおかげで、数学ショックはしばらくの間で収まった。好きな科目を深堀りできたこともあり、ある意味、貴重な時間だったと言ってもいいかも知れない。
 夢というものを考えた時、確かにまったく同じ夢は見ることはないのだが、酷似の夢は結構見たりする。それは、夢に入る前の心境などが、微妙に影響しているのだとすれば、当然のことであり、同じ潜在意識でも、同じ夢を見ることができないという発想は、
「一度書いた小説を、同じ発想でもう一度書こうとしても、まったく違ったシチュエーションの作品になったりするのではないか?」
 と思うのだ。
 結末は酷似してくるのだろうが、書いている自分が集中しているので、それぞれの集中の間に時間という溝が存在しているのであるから、同じ作品になるということの方が恐ろしい。
 だからこそ、夢でも同じことであって、同じ心境であっても、実際には違っている。
「見た夢を思い出せる時と、思い出せない時がある」
 という発想もそこから来ているのではないだろうか。
 思い出せる夢というのは、圧倒的に怖い夢が多い。そういう意味で楽しい夢を見たという記憶がないと思っているので、だからこそ、
「楽しい夢は忘れてしまうのだ」
 と感じるのだ。
 そうでないと、忘れてしまっているのに、その夢がどんな夢だったのか? ということ、そして、忘れてしまっている夢があるということも、おぼろげではあるが、理解しているということは、
「楽しい夢を見ると、ほとんど覚えていない」
 という結論に結びつく理由になるというのも、おかしな話のように思う。
 自分が見る夢を、
「潜在意識として、無意識に見るということは、見ているのではなく、見さされているのではないか?」
 と考えるのは、少し乱暴なのかも知れない。
「では、怖い夢というのは、自分にとってどんな夢なのか?」
 というのを思い出してみた。
 一番多かった、怖いと思った夢は、
「もう一人の自分」
 が出てくる夢であった。
 もう一人の自分が出てきた瞬間に、
「これは怖い夢であり、だからこそ、きっと忘れないだろう」
 と感じたことまで、目が覚めても覚えているのだ。
 もっとたくさんのことを考えたに違いないと思うが、なぜかいつも覚えているのはまったく同じところであり、
「同じ夢を見るということはありえない」
 という考えに矛盾しているのかも知れない。
 しかし、逆に、
「覚えているのが、たまたままったく同じところというだけで、他の部分は似ても似つかないシチュエーションだったのかも知れない」
 しかし、夢は夢の世界として繋がっていて、以前に見た同じ夢の部分を潜在意識が記憶していて、その部分を、影絵の仕掛けのような感覚で見せるのだとすれば、ここでの矛盾に対しての回答、あるいは、納得させる考えに至るのではないかと感じるのだった。
 もう一人の自分が出てくる夢は、そのほとんどが追いかけてくる夢であり、逃げているので後ろは見えないが、気が付けば、追手は消えている。追いかける方も、
「夢を見ているもうひとりの自分に見つかってはいけない」
 というルールが存在していて、数秒以上意識されてしまうと、一度消えなければいけない運命にあるのではないだろうか。
 しかし、その数秒が消えてしまうと、また現れる。だから恐怖を感じるのだ。
 そもそも、
「夢というのは、目が覚める数秒の間に見るものだ」
 というではないか。
 その数秒の間に、戻ってこれなかったため、目が覚めてしまい、戻ってこれなかったもう一人の自分は、目が覚めるまでの中途半端な夢うつつの状態の時に現れ。あたかも、
「夢を覚えている」
 という感覚に陥らせたのかも知れない。
 それが夢という世界と、現実の世界を結んでいるという錯覚なのか妄想なのかが混乱した状態で頭の中に残っているので。余計に鮮明に、
「夢を覚えている」
 と感じたのかも知れない。
 また、夢というものの中に、予知夢と呼ばれるものがある。実際にこれから起きるものを見るという意味で、正夢と呼ばれるものだったりもする。
 中には、あまりにもリアルな夢で、本当に過去にあったことのように感じてしまう夢もあったりするが、基本的に夢というものには、リアリティはないものだと思っている。
 過去にあった出来事を夢に見て、それだけにリアリティがあることであっても、目から覚めてしまうと、忘れてしまったり、覚えていても、肝心なとことは消えてなくなってしまっていて、自分の意識とは程遠いものだったりするのではないだろうか。それを思うと、夢というものに、色や匂いというものがなく、ただ、白黒映像を見ていたかのような錯覚に陥ったりもする。
 だが、白黒映像というのも、意外とリアリティがあるので、それでもないような気がすることから、却って夢の神秘性がリアリティを感じさせるくらいであった。
 そう考えていると、人間が感じている色や匂いというものも、本当にリアルなものなのだろうか?
 というのも、
「起きているからこそ、味覚、聴覚などのような五感が働くというのだろうか?」
 と考えるからである。
 触覚など、身体に触れるものであれば、それは、夢を見ているような時でも感じるものであり、夢の中で、ひょっとすると、いきなり痛みを感じた時、夢の中のストーリーをコントロールできたのかも知れない。起きてから、痛かったことなど覚えていないから何ともいえないが、夢の中の潜在意識という能力はそれくらいの蘇生力のようなものを持っていて、
「原状復帰」
 という、本能のようなものを持ち合わせているのかも知れない。
 それは一種の超能力のようなもので、潜在意識を超越した、
「超意識」
 と呼ばれるようなもので、その定義として、
「あなたが身体に宿って経験し感じようとした事を、「完了」しようとすることだ」
 と言われているようだ。
 そういう意味で、夢の世界が特殊だというのは、高度な潜在意識であったり、超意識は、夢の世界にしか存在せず。起きている時には、
「触れることのできない神聖なもの」
 として、自分の中に君臨しているのかも知れない。
 そう考えると、夢を誰かと共有しているなどという考えは、夢の世界に対しての冒涜なのではないかとさえ思えてきた。
 夢を見るということは、この世のリアリティに比べると、かなり都合よくできている世界にいるのではないかと考えられるが、それを覚えていないということは、意識レベルが、現実世界では、耐えられないほど、自由ではあるが、それ以上に、厳しい世界が夢の世界なのではないかとも思えたのだ。
「現実世界は、考察したことを行動に起こせば、行動に起こしたようにしか作用しない」
 というのは、当たり前のこととして認識されているだろう。
 しかし、夢の世界というのはそうではない。意識したことが、その認識レベルの高さゆえ、感じて行動したことは、感覚の範囲でしか起こりえないのではないのだろうか。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次