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大学時代の夢

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 考えてみれば、夢の共有などという発想は、結構ありがちなことであるが、夢を共有するということを、非科学的に考えて、あくまでも小説のネタとして書いていると、ある意味、バリエーションを利かせることができて、発想も膨らんでくるものなのだろう。
 だからこそ、いろいろな小説に対しての発想が生まれてきて、そのために、科学的な発想が出てくる芽を摘み取っているのではないかと思うのだ。
 だが、前述の私の話のように、確かに天界などという世界の発想を持ち出したところから見て、
「これのどこが科学的だと言えるんだ?」
 と言われるかも知れないが、夢というものを、誰かと共有するという発想でいけば、よほど辻褄が合っているのではないだろうか?
 科学的に考えるということはそういうことだと思うのだ。
 辻褄が合う。つまり、納得がいくということだ。納得がいかないことであれば、誰に何を言っても信ぴょう性がない。
「人を説得するのに、自分が納得のいくものでなければ、うまく説得などできるはずがない」
 と言われるが、まさにその通りである。
 何か、人に素晴らしさを伝えるのに、自分がどう素晴らしいと感じたかということを言わないと、伝わるわけはないということと同じである。
「夢の共有」
 だって同じこと、まずは、自分が信じることで、
「夢の共有はありえることだ」
 と信じることで、そこから、どうすれば納得できるかを考えることになるはずだ。
 自分が納得さえできれば、そこから生まれてくるものは必ずあるはず。それが、人を説得、いや、その人が、自分で納得したと思えるように導いてあげることが、一番の近道なのだ。
 ただ。これが実際に一番難しい。自分で納得するだけでも大変なのに、その人が自分と同じプロセスで納得できるはずもない。だから、自分の経験を話しても同じなのだ。
「相手が納得できるように、導いてあげる」
 という考えでなければダメだ。
 そのためには、
「君なら、できるはずだ」
 ということを示さなければいけない。
 それをどうすればいいのか。それは、相手にも、
「自分と同じなんだけど、同じ方法をとる必要などない」
 ということを教えなければいけない。
 もちろん、教えると言っても、強制ではいけない。間違っている間違っていないという問題を解決するのも、人それぞれ、決まった答えを見つけ出すのに、何も一つの方法である必要はないということを、教える必要がある。
「それが算数であり。数学ではない」
 ということだ。
 数学のように、公式に当てはめることで答えを見つけるというのは、理論から考えると間違ってはいない考えではあるが、あくまでも、考え方の問題である。算数は、答えを導き出すにはどうすればいいのかを、考える学問だ。そして、その問いに対して、
「どうすれば答えを求めることができるのか?」
 ということを、かつての数学者が導き出しものだ。
 彼らだって思ったはずだ。
「数列は、規則正しく作られていて、神秘も数字によって解明できるはずだ」
 ということをである。
 数学というものを教えるよりも、算数のように、公式なしで生徒に解かせることを小学校でやったのだから、なぜ。公式を導かせるような教育をしようとしないのか、一足飛びに過去の偉人が発見した公式に当てはめて数学として勉強させる。それは、本当の勉強だといえるのだろうか。
 中学に入って、公式を習う前に、公式を自分なりに見つけて、数学の先生に自慢げに話したが、
「これは昔の数学者が公式として発表している」
 と言われ、
「そうなんですね:
 とショックを受けていると、
「お前のその発想は大切にしていけよ。過去の偉人だって、そこから公式を発見したんだ。お前にできないはずはない」
 と、言われたのが今でも印象に残っている。
 数学になって、とたんに勉強が嫌いになった。それは数学だけのはずだったのだが、少しの間、
「数学ショック」
 というものが自分の中にあり、数学が嫌いになったせいで、数科目嫌いな科目が増えたせいで、勉強自体が嫌いになった。
 しかし、好きだった科目もあった。歴史や地理のような科目は好きだった。特に歴史だったのだが、作者は、歴史も数学のようなものだと思っているにも関わらず、なぜ、歴史が好きだったのかを考えてみた。
 歴史というのは時系列で、時刻という規則正しいものの羅列で出来上がっているものだ。しかし、それはあくまでも一本の線であり、歴史にはいろいろな側面がある。学校で習うのはその一部であり、研究すればするほど、その側面には、いろいろなものが含まれているわけだ。
 中にはそれが伏線となり、歴史で習った出来事に結びついてくる。歴史のいわゆる、表舞台から少し離れたとしても、わき道を通って、再度表舞台に戻ってきて、必ず、繋がるものだと信じている。そうでなければ、今自分たちが生きていることの証明にはならないからだ。
 さらに、歴史の事件の中で、何かクーデターなどを起こそうとする人たちは、今自分たちが起こそうとしていう事件が、すぐに歴史に影響を及ぼすというようなことは考えていないのではないだろうか。
 だから、自分たちはどうなってもいいから、
「俺たちがやったことが、正しいことなのかどうか、俺には分からない。しかし、必ず歴史が答えを出してくれる」
 と考えて、クーデターを起こしているのだ。
 彼らだって、歴史がそんなに甘いものだということを認識しているわけではないようだ。歴史というものが、その後の時代にもたらすものがあるというのは、それだけ、時間というものが、規則正しく、しかも、前だけを見て、刻まれていくからだと認識しているということなのだろう。
 もし、歴史に心があるとすれば、人間をどのように見ているだろう?ある意味。神様がいるとすれば、それは、歴史というものなのではないだろうか。
「時をつかさどる神」
 というものがあってもいいはずだ。
 実際に、
「時間の神」
 として、ギリシャ神話の中で、
「クロノス」という神が存在している。
 このクロノスというのは、
「時を神格化させたものだ」
 という。
 他では聞かないので、ギリシャ神話のみの考え方なのだろう。やはり、それだけ時というものを真剣に考えるのが難しいということなのか、時や歴史を人間の世界の話に結びつけるには抽象的でなくてはいけなく、神としてしまうのは、違うのだという発想もあるのかも知れない。
 そのあたりはハッキリとは分からないが、それだけ、発想として難しいものだといえるのではないだろうか?
 この章のテーマである。夢というものも、時間という概念がない。見ている夢は、事例列で進んでいるわけではなく、子供の頃の夢を見ていたかと思うと、いきなり現代になったり、また過去に戻ったり、いや、過去に存在していた人たちが生まれ変わって、今の自分と共存しているかのような感覚に襲われることだってある。
 元々が潜在意識が見せるものなのだから、当たり前のことであり、夢というものがいかに神秘的であるかということからも、ある意味、時間の神秘性と、共有できるところ、共有が許されないところ、それぞれあり、その境界線になっているところが、結界のように。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次