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大学時代の夢

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 もし、そんなところで知り合うのであれば、却って腹が立つ。
「お前たちのような連中が、世間一般と同じだなんて、却ってムカついてくる」
 と感じるが、これは、あくまでもまわりから、
「俺はお前たちと一緒だと思われたくない」
 あるいは、
「一緒だと俺自身が感じたくないんだ」
 というほども、まわりから妬まれていたのだと思うのだ。
 ただ、二人がそんな妬みを受けているなど、思ってもいないだろう。
 妬まれていたのを知っていたとしても、それは、
「私たちを美男美女だと思うことでの嫉妬からだ」
 ということを、分かっているからであろう。
 嫉妬というのは、感じる方は苛立たしく、嫉妬を受ける方は、嫌なものだというのが普通なのだろうが、嫉妬というのは、少し違う気がする。
 嫉妬する方は、嫉妬することで、相手に対しての憤りを嫉妬のせいにすることで、相手を憎む理由にすることができ、嫉妬される方は、まわりから羨ましがられるほどの注目度だといえるのだろうが、嫉妬を受けるということは、自分がそれだけあざといことをしているという証拠であり、本来なら、羨ましがられることではないだろう。
 本当に美男美女で、性格がいいのであれば、嫉妬を受けることなどないだろう。なぜなら、自分が男性であれば、美女と野獣がカップルになれば、美男が残って、美女が一人減るということであり、確率からいうと、自分に彼女ができる確率が減るということである。ただし、自分がブサイクだという認識があり、
「ブサイク同士であればいい」
 と思っているのであれば、逆に、ブサイクが残るので、自分にも可能性がないわけではない。
 だがこの考えは何とも情けないものではないか。自分がブサイクであり、
「ブサイクだから、相手もブサイクでもいい」
 という理屈だ。
 そこまで条件を下げてしまうと、本当にその下げた条件が本当の条件のように錯覚してしまい、嫉妬というものを、悪いものにしてしまいがちである。
 本当は、嫉妬を抱くことで、自分を磨き、いい男になるように精進するという考えから生まれたもののように感じていたのだが、このような考えになってしまうと、本末転倒も甚だしいものになってしまうだろう。
 嫉妬というものを考えているうちに、
「嫉妬というものが、どこから生まれるのか?」
 という考えが生まれてきたことに気づいていた。
 嫉妬という言葉を考えると、似たようなものとして、
「猜疑心」
 というのがあるが、実際には違うもののようだ。
「嫉妬というのは、自分よりも優れている人を憎んでしまうことであり、猜疑というのは、相手の言動の裏を読んでしまうこと」
 のようだ。
 相手を妬み、そして疑うことに、
「猜疑嫉妬」
 という言葉があり、それは、嫉妬したことで、相手を疑うということであろうか。
 また、嫉妬という言葉は、猜疑嫉妬のようなもの以外にも。
「優れてる人を妬む」
 ということで、相手が自分よりも優れているという条件がある。
 普通、恋愛関係で嫉妬というと、相手がどんな相手であれ、自分が好きになった人の心を奪われてしまう人に対して感じることだ。だが、好きになった人が誰かを好きになると考えた時、どれが自分であってほしいと思うのは当たり前のことで、それは、自分を立派な人間、優れている人間としての尊敬の念を抱いていてほしいと考えるところから来ているのであろう。
 それを考えると、やはり、
「妬む相手は、自分よりも優れている人間であることが大前提なんだ」
ということになるのであろう。
 猜疑心というのは、
「相手の言動の裏を読む」
 ということで、疑うということを前提に考えることであった。
 心の裏を読む場合に、相手との探り合いなどで、制した方は、いいように言われるが、猜疑心の場合は、悪いことしかない。
 猜疑心が強すぎると、妬みがひどくなり、相手を信じることができなくなると、何を言っても無駄な状態になってしまう。
 いくら好きな相手であっても、一度疑ってしまうと、
「可愛さ余って憎さ百倍」
 と言われる通り、何を言っても、そのすべてを言い訳と取られてしまい、憎しみしか生まれなくなってしまうであろう。
 そうなってしまうと、事件に発展してしまわなくもかなくなるだろう。
 相手を蹂躙して、いうことを聞かせようと、監禁したり立てこもったりする事件であったり、それがエスカレートして殺してしまったりである。
 そんな場合に、たまに、
「耽美主義」
 と比較されることもあるが、実際には全く正反対だといえるのではないだろうか。
 耽美主義というのは、あくまでも、道徳秩序を超越した「美」というものを、いかに手に入れたり、自分で表現できるかということである。
 耽美主義での犯罪と、猜疑心による犯罪は、犯罪者の歪んだ性格から生まれるものであったり、猟奇的な犯罪という意味では共通したところがないわけではないが、その原因となる入り口はまったく違っている。
 耽美主義は、前述のように、あくまでも美を追求すればそれでいいのであり、心の中の問題ではないのだ。
 耽美主義とは、本人が感じた美に対してであれば、感情をマヒさせるというだけであり、猜疑心のように、犯罪に対して向き合った感情を決して、マヒさせることのないものとは、根本から違っているものだといえるだろう。
 しかも、耽美主義の犯罪は、なかなか起こるものではないが、猜疑心から起こる犯罪は、一歩間違えば起こるものであり、感情が強ければ強いほど、感情そのものを表に出して、自分の正当性を訴えようとするかも知れない。
 耽美主義には、犯罪の正当性など関係ないのだ。最初から、美しければ犯罪だとは思っていないのだ。悪いことをしているという感覚がないから、美というものを追求できるのだろう。猜疑心のように、悪いことをしているという感情から自分を正当化させ、その正当性ゆえに、人殺しも辞さないと訴えたいのである。
 どちらが潔いかといえば、耽美主義であろう。自分の追及するものに対しても、あくまでも疑うことのない探求心である。つまり、耽美主義には、
「疑う」
 という感覚がないのだった。

                 気になる姉妹

 そんな猜疑心や、耽美主義が生まれる事件の背景には、時代的な背景がないとは言えないだろう。
 耽美主義的な事件が生まれる時代背景には特殊なものがあり、猜疑心から生まれるものは、人を信頼するとバカを見るというような時代に出てくるのかも知れない。
 不倫などが横行し始めた時期などには多いかも知れない。
 しかし、実際にそれが社会問題となって、
「不倫なんて、珍しくもなんともない」
 と言われるような時代になってくると、嫉妬することが当たり前のようになり。今度は冷めたような目で見るようになると、
「不倫なんて、もうみんなが当たり前のようにしているこの時代に、妬んだだけで犯罪者になってしまうなんて、実にバカバカしくなっちゃうよな」
 ということである。
 だから、確かに、離婚や不倫が増えてきたこの時代、不倫などで、寝とられたからと言っていちいち犯罪を犯すような人は、
「暇人なんじゃないか?」
 と言われるだろう。
作品名:大学時代の夢 作家名:森本晃次