大学時代の夢
「そうですね。年金の問題などは、切実ですね」
と須川は言った。
須川が大学生の頃は、まだ、あの世間を騒がせた。国家の大不祥事と言える、
「消えた年金問題」
などのなかった頃だったが、定年が後ろにずれこんだりして、少子高齢化問題が、大きな問題になっていたのだ。
そんな時代を聡子はまるで予知しているような言い方だった。
「デメリットもあるんですよ。寿命が決まっていれば、先が分かってるだけに、何かの目標を立てたとして、そのゴールに対しての達成度がリアルに分かってくる。寿命が七十歳として、五十歳を過ぎた頃に、もうすでに目的達成ができないことが分かれば、そのあとの人生をどうすればいいかということですよね。確かに次の目標を立てればいいということでしょうが、一生を掛けた目標が断絶してしまい、残り二十年で何ができるのかって思ってしまうでしょうね。そうなると、憤りとショックとで、生きがいはない。先は見えているで、それこそ何もできなくなってしまうという危険性は大いにあるんですよ」
ということであった。
「それにですね。死というものが近づいて、余命をカウントダウンするようになると、いくら目標を立てて、それを達成してしまったとすれば。もう生きがいがないまま、あとは死を待つだけですよね。それって、ロウソクの炎が消えて後の燃えカスでしかない、それを思うと、急にリアルな死というものが押し寄せてくる。それまでは、生きがいがあったから、そこに向かってまっしぐらだったけど、完全に燃え尽き症候群になるというものですよね?」
と聡子はつづけた。
それを聞きながら、
「まだ、若いのにそんなことまで考えていたんだ」
と、感じると、寒気がしてくるほどだった。
「あっ、すみません。私調子に乗ってしまいましたね。気心知れた友達が相手だと、いつもこんな話になってしまって、急に我に返って、いつも誤っているんです。本当にごめんなさい」
と聡子は言った。
「いや、大丈夫ですよ。僕もお話を聞いていて分かる部分も結構ありましたのでね。でも、ちょっと話題としては重過ぎるような気がしたので、少し圧倒されていたというのが、本音ですかね」
と須川は言った。
「ごめんね。いつも友達からは、それがあんただからって言われるんですが、こんなに興奮してお話したのは久しぶりでした」
というのだった。
それからあとは、普通に歴史の話に花が咲いた。その後の彼女の話も結構、専門的で他の人だったら難しすぎるのではないかと思ったが、その前の話があまりにも重たすぎたので、そのあと、どんな話でも、大したことのない話に落ち着くように感じるのだった。
「私、一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる方なんですよ」
と、聡子が言った。
「あっ、それは僕も一緒なんですよ。しかも、他の人と同じでは嫌だと思うところがあるので、よくまわりから。お前は難しいって言われるんです」
と言って、須川は苦笑いをした。
それを聞いた聡子も、
「類は友を呼ぶと言いますけど、そうなのかも知れないですね」
というのだった。
聡子という女の子は友達としては楽しいと思うのだろうが、もし、彼女にするのであれば、普通は考えるかも知れないと思った。少なくとも彼女の話についてこれなければ、どうすることもできない。置いていかれてしまった時点で、あとは、
「交わることのない平行線」
を描くだけになってしまうことだろう。
それを考えると、
「聡子さんには、彼氏はいないのかも知れない」
と思った。
彼女のような女性には、自分のような男性が合うんだという意識を強く持ってしまったその時から、
「俺は聡子さんを好きになったんだろうな?」
と感じたのだろう。
そのあとの歴史の会話では、飛鳥時代から、幕末に続く話を一本でつないだ。そのキーワードになる言葉は、
「宗教と、国際化」「
という観点であった。
「厩戸皇子の時代から、乙巳の変、そして、奈良時代に続くこの時代は、仏教というのが大きな問題ですよね。厩戸皇子が、仏教を奨励し、法隆寺や国分寺の建立を進めた。その頃には、蘇我氏の台頭もあり、蘇我氏は仏教推進派だったので、仏教ではない、そもそも日本にあった国教というものを推進した物部氏を滅ぼすことで、蘇我氏は力を持った。でも、厩戸皇子が亡くなったあと、蘇我氏が実験を握ると、王位継承問題と相まって、蘇我氏を滅ぼそうとする一派があった。それを、帝に、蘇我氏が国家の滅亡を企んでいたという話をして、成敗された蘇我入鹿を今までは悪者として言われてきたけど、実際には、あの時、乙巳の変が起こってしまったことで、日本の歴史は100年発展が遅れたといわれたんですよ。それは、宗教問題だけではなく、蘇我氏が朝鮮半島の外交を対等外交だったのに、中大兄皇子や中臣鎌足が、百済一辺倒の外交にしたことで、朝鮮との交易がうまくいかず、さらには、日本に攻めてこられないかということを警戒しなければいけなくなったのよ。その挙句が、50年ちょっとの間に。10回ちかくの遷都が行われた。そんなことをしていなければ、仏教文化が花開いていたかも知れないですよね」
と話してくれた。
この話は実に興味があった。確かに乙巳の変というものが、歴史で言われていることと違うという研究が近年されているのも、分かっていたからだ。
須川の大学時代というと、発掘調査などがどんどん盛んになっていって、歴史認識も教科書に載っているものとはかなり違ってきている。
敢えてここでは、今の人に分かりやすいように、現代言われている言葉で書いたが、須川が大学時代というと、前述の厩戸皇子を、
「聖徳太子」
と呼び、乙巳の変のことを、
「大化の改新」
と呼んでいた。
大化の改新と乙巳の変の関係は、
「乙巳の変というのは、飛鳥板葺宮において、朝鮮からの朝貢物を清涼殿で目録を蘇我氏が、読み上げている最終に、当時皇太子であった中大兄皇子と、蘇我入鹿をライバル視する中臣鎌足が討ち果たすというクーデターが行われ、それによって、蘇我入鹿が殺され、さらに父親の蘇我蝦夷も、屋敷に火を放って、自害したという事件であり、これを歴史上、一般的に、大化の改新と呼ばれていた」
ということであったのだ。
本来の大化の改新というのは、クーデターの後の、中臣鎌足と中大兄皇子との間で行われた改革をいうのだ。
しかし、その改革はほとんどうまく行っていない。聖徳太子の行った政治を継承するということであったが、実際には、仏教ではなく、国教を厚く信仰したり、朝鮮との外交も、後手後手に回ってしまったのは、前述のとおりである。
確かに、あのまま蘇我氏が勢力を持ってしまうと、独裁国家になったかも知れないが、少なくとも歴史が逆行することもなく、50年ちょっとの間で、10回近くも遷都をする必要などなかったであろう。
その後も、聡子と歴史の話に花が咲き、源平合戦の時代、さらに封建制度、戦国、本能寺と、話は尽きることはなかった。