大学時代の夢
須川が、制服フェチであるということに気づいたのは、その子の制服が須川にとって御気に入りだったのと、彼女の雰囲気からであった。
彼女を好きになったのは、制服がかわいかったからなのか、雰囲気が制服を含めて忘れられないほどにショッキングだったのか、たぶん、後者だったのかも知れない。
「顔を見て、性格を判断する」
そんなタイプだと思っていたのだったが、そうではないということが、高校時代に証明される形になった。
「顔なのではなく、醸し出される雰囲気によって、相手の性格を感じるのが、自分の本当の性格だ」
というように、須川は感じるようになっていた。
その女性は、どうやら一学年上だったようで、高校三年生になると、同じバスに乗ってくることはなくなった。
それまで、あれだけかわいいと思っていた制服も、彼女に遭えないことで、興味も半減したのだが、制服フェチだということに間違いはないようで、そのおかげで、自分が異性に感じる理由がどういうものであるのかということを、完全に見失ってしまったようだった。
そのせいもあって、大学に入ってから、最初の頃は、
「彼女がほしい」
と感じることもなく、好きになった女の子も、
「小学生の初恋の子だけだった」
と感じたのだ。
一番インパクトがあったはずの、高校時代に毎日会っていた女性も、顔をほとんど確認できなかったことと、話しかける勇気すら持てなかったことで、本当に好きだったのかすら分からなくなったことだった。
その証拠に、高校三年生の時、彼女を見なくなってから、ひと月ほどで、制服だけを見るようになった。
女の子の顔を確認することが怖いという気持ちもあるようで、女の子を好きになるということが何を意味するのか、自分でもよく分かっていなかったのだ。
大学で知り合った聡子、彼女が、異性を意識し始めて初めて、真正面から顔を見た女性だったのかも知れない。
友達としては何人か女の子はいたが、異性として意識をしていなかったのだ。
あくまでも、好みではなかったし、饒舌なところが、最初から、
「女友達」
としてしか意識させないオーラがあったのだった。
ギャグを言い合ったり、下手をすれば、酒が入れば、平気で下ネタを言い合えるような仲になっていて、まるでお笑いコンビにでもなったかのような気がするくらいだった。
だからこそ、気楽に話ができるのだ。
その気楽さがあるからこそ、友達として認めることができ、
「かわいい子がいたら、紹介してよ」
と平気で言える仲だった。
「いいけど、ちゃんと付き合ってよ。あんたがうまくいかないと、こっちの関係もうまくいかないんだからね」
と言われ、
「じゃあ、いいや」
「いいんかい!」
という、コントが出来上がるほどだったのだ。
自分が好きな清楚系、素直さ、素朴さなど、ひとかけらもない。そんな思いが募ることで、聡子に出会う前は、
「彼女なんかできるわけもないか?」
という思いでため息をついてしまうと、思い出すのが、高校の時のバスの中にいたあの女性、
「また会いたいな?」
と感じるのだった。
もちろん、それが不可能なのはわかりきっていることで、なぜかというと、
「会いたいのは、今の彼女ではなく、あの気に入った制服を着ていて、こちらに背中を向けていたあの頃の彼女」
だったからである。
それは、今の彼女が高校を卒業したことで、まったく違う雰囲気になってしまったということを信じて疑わないからだった。
試験の執行
須川は、大学に入ってやっと好きになることができそうな女の子である聡子と、いくつか授業が一緒だった。
三年生になると専門がほとんどなのだが、二年生までは、一般教養の授業が多いので、同じ授業が重なっても別に不思議はなかったのだ。
授業が終わってから、たまに話をするようになった。大学の生協の横に、喫茶ルームがあり、友達とは来たことがあったが、女の子とは、友達であっても、初めてだった。緊張もしたが、彼女が話題を振ってくれるので、会話は盛り上がった。
彼女は思った通りの博学で、
「何か好きな教科はありますか?」
と聞かれて、
「そうですね、日本史なんか好きですね」
というと、彼女は目を輝かせて、
「それなら、私もついていけそうです」
と、謙虚に言ったが、実際に謙虚だった。
彼女の日本史の知識は相当なもので、それも、学校で習うことよりも、いわゆる、
「学校では教えてくれない歴史」
に関しても造形が深かったのだ。
「どの時代が好きですか?」
と聞かれて、黙っていると、
「私は時代からの切り口というよりも、それぞれの時代に起こった事件などの点と点を線で結んで考えるようにしているんですよ」
というではないか。
須川のように、歴史に造詣が深ければ、言っている意味が分かるが、そうではない人には、聡子が何を言いたいのか分からないだろう。
「なるほど言っている意味は分かるような気がします。それには、何か一つの事件から幅を広げていくという考えでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、そうです。歴史というものって、いろいろな切り口があると思うんですよ。一番わかりやすいのは、時系列ですよね。時間が、過去から現在、そして未来に続いていく。もっというと、未来が現在になり、過去になっていく。つまりは、未来がどんどん少なくなっていき、過去がどんどん増えてくる。それを皆は意識していないでしょう? 人間一人一人ではなく、社会全体で考えるからですね」
「そうですね」
「でも、これを人間一人に限ると、人間の命には限りがあるということになる。どんどん時間が過ぎていくと、その人に受け持たれた時間がどんどん短くなっていくわけですが、それを意識する人は、あまりいないですよね? それは、その人の寿命が誰にも分からないからです。もし、須川さんが、あなたの寿命は80歳だと言われたとしましょうか? 今が二十歳くらいなので、あと六十年あることになる。まだ四分の一しか生きていないわけです。でも、これが四十歳、五十歳になればどうですか? 半分来たことになるので、考え方も変わってくると思うんですよね。でも、普通人生は、平均寿命というのがあって、その通りには行かないものですよね? 病気や事故で、明日死ぬかも知れない。不謹慎だけど、ありえないことではない。もっといろいろやっておけばよかったと思ったりするでしょうね? あと、寿命が分かっていればとも感じるかも知れない。でも、すべては終わっているんですよ。だから、寿命が分かっているのと分かっていないの。一長一短ある。もちろん、余命宣告を受けた人にこんなことをいうと、失礼極まりないと思うんですが、普通に生きてきた人には一長一短だと思うんですよ」
と聡子は言った。
少し話が脇道に逸れている感じであるが、もう少し聞いてみようと思った。
「寿命が分かっているメリットとしては、目標があれば、そこまでに計画が立てられるということですね。それともう一つは、生活という意味でリアルな話ですが、寿命が分かっていれば、年金の授受も決めやすいですよね」
というのだった。