大学時代の夢
須川は、素直な女の子が好きだった。素直というのは、その平行線上に、素朴という言葉があり、その平行線が交わってこそ、相手の美しさが分かるというもので、そんな女性がそれまで現れなかったのは、不幸中の幸いだといってもいいだろう。
だが、二年生にあってから、授業中にノートを貸してくれたその子の素朴さに、須川は参ってしまった。
その時は会話も緊張からか、できなかった。すでに友達を数人作ることができたおかげで、それまでまったくできなかった友達との会話も、すればするほど、言葉も話題性も出てくるようになって、人からは、
「お前とは話しやすい」
と言われるようになったのだ。
その頃になると、他の女の子とは普通に話せるようになったが、実際に好きになった子はいなかった。
その頃から好きな女の子への好みは広く、大きな羽を広げて待ち構えているかのようだったが、それだけに、自分の中で余裕があったつもりなのか、
「彼女くらいいつでもできる」
と思っていた。
しかし、須川は自分の容姿には自信がなかった。どちらかというと、
「ダサい男だ」
と思い込んでいた。
それだけに、もっと焦ってもよいのだろうが、元々のものぐさな性格からか、焦るようなことはなかったのだ。
今だったら、
「菜食男子」
と言われ、却って頼りないといわれるかも知れないが、須川が大学生の時代というと、
「ガツガツしていない男子は好感が持てるし、安心感がある」
と、女性から一目置かれていたのだ。
そういう意味で、須川を密かに思っていた女性もいたようだったが、須川自身が、鈍感で、女の子の考えていることを見抜けなかったところがあるので、それまで彼女もできなかったのだ。
だがそれを、
「俺がダサいからだよな」
と思っていたことで、モテないことへの理由としていた。
モテないことを悪いことだとも思わなかった。ただ、女性に関しての興味はあったのだから、なぜモテないのかということを分からないのが、どこか忌々しいと思っていた。
そんな時に現れた彼女のことを、須川は、次第に好きになるようになった。
彼女の名前は聡子さんと言った。石坂聡子、学部は違って、彼女は文学部だが、どこか、気が強そうなところも垣間見えたのだが、最初は気づかなかった。
「私のノート、助かりましたか?」
「ええ、とっても助かりました。ありがとうございます」
この時、「とても」と言わず、「とっても」と言ったのは、最上級の気持ちを込めてであったが、聡子には伝わっただろうか?
なかなか、本心を表に出そうとすることをしない須川は、時々、そうやって気になる人に信号を送っている。それが通じる相手が今まではなかなかいなかったが、どうやら通じたような聡子を、本気で気にし始めた。
彼女のことを好きになったとすれば、きっとその時だろう。ただ、この時が初恋でないことは分かっている。初恋がいつだったのかというと、あれは小学生の三年生ではなかったか。あの頃は、まだ思春期など程遠く、女性に対しての興味という意味のものではなかったと思う。容姿にしても、
「かわいいな」
とは思ったであろうが、それ以上でもそれ以下でもなかっただろう。
ただ、須川は女の子の顔を見て、その子の性格を判断する方だった。そういう性格になったのは、その時に初恋の相手ができたからかも知れない。もし、違う違うタイミングで同じ女の子を気にするようになったとしても、また違った感覚だったかも知れない。
「好きになるのは、タイミングというのが重要なのだ」
と今でも思っているが、やはりその時に感じたからだと思うのだ。
その女の子は、実におとなしい子で、いつも一人でいた。須川もいつも一人だったので、独りぼっち同士、意識をしてはいたのだろう。
彼女が須川の方をいつも見ている気がした。そのことに気づいた時には、須川も彼女のことを意識していたのだろう。お互いに意識し始めると、近づくのは自然の摂理ではないだろうか。話しかけたのは、須川の方、なんと言って話しかけたのかなど、覚えていないが、話しかけられた彼女は、必要以上なことを口にするわけではなく、ただ、須川の言葉にうなずいているだけだった。
会話は本当に短いものだっただろうが、須川の言葉に彼女が相槌を打つだけだったので、会話が成立していたのだとすれば、それは。須川が饒舌だったからに違いない。
知らない人が見れば、兄と妹という風に見えたかも知れない。彼女は必ず、須川の後ろからしかついてこない。だから、須川が彼女の顔を見ながら話したというと、座っている時に横顔を見るくらいだっただろうか。だから、中学に入ってから、彼女の顔をもう覚えていない。
ただ、須川が好きだったのは、彼女の横顔だったのだ。長い髪の毛が、彼女の顔を隠しているその雰囲気、それが好きだったのだ。
一緒にいる時は、よくお互いの家に遊びに行っていたものだ。親は、女の子であろうと、友達ができたことを喜んでいたようで、彼女の親もそうだったのだろう。親同士も仲良くなったようで、二人で遊んでいても誰に文句を言われることもなかった。
しかし、別れは意外な形で訪れた。
その別れのきっかけを作ったのは、他ならぬ須川だったのだ。
その日がいつだったのか、覚えている。もちろん、日にちまで覚えているわけではないが、彼女を見た瞬間、
「あれっ?」
と感じたのだ。
当然のごとく、彼女本人であることは間違いなかった。だが、何かが違う。簡単に分かるはずのことをすぐに分からなかったのは、自分で信じようとしなかったからだろう。
「ウソだろう? まさか」
と思ったことで、目の前の事実を打ち消そうとしたのかも知れない。
それまで彼女の自慢だと思っていた挑発を耳下くらいまで切ってしまい、しかも、おかっぱ頭になっていた、完全に、子供の頃から見ていた、国民的アニメ番組の、次女の女の子のあの髪型であった。
正直、あの髪型は大嫌いだった。それをまさか、かわいいと思っていたあの子がしてくるなど、いきなり信じろという方が無理だった。打ち消そうとしたができるはずもない。目の錯覚で片付けられるはずもない。
一気に気持ちは冷めてしまった。
それまでは、こっちが歩み寄っても、ビクともしなかった彼女が、須川がソッポを向いてしまった瞬間、媚を売ってくるようだった。
だが、それも、実に短い間で終わった。彼女の方でも諦めがついたというのか、それとも、いまさら無駄だということに気が付いたのか、それ以降、一切の会話はなくなり、二人の距離は断絶してしまった。
家族同士もしょうがなく、国交断絶状態になり、
「俺が悪いのか?」
と思いながら、小学生時代をずっと過ごした。
あの時の、須川は、勝手に、
「裏切られた」
と思ってしまったのだ。
今から思えば、彼女はそのことに気づいていたのだろう。だから、一度は歩み寄ってくれようとしたのだが、すぐに、ダメだと気づいたに違いない。それだけ彼女は感受性が強く、その分、気が強かったのだと思う。そんな彼女が好きだったはずなのに、性格が変わったわけではなく、容姿という雰囲気が変わってしまったことで、彼女のことが分からなくなったのだろう。