天ケ瀬三姉妹
小説の中では、小説の分量によって、登場人物の人数、あるいは、時代背景などの時間の範囲などが、大方決まっているようなものがある。短編なのに、登場人物が百人を超えたり、時代背景が、明治初期から昭和末期などという、とても短編で表しきれないような設定など、普通に考えてできるものではない。
長編だからといって、確かに、少なくも多くもできるが、多い方と少ない方にそれぞれ存在する一長一短を考えながら書くことを思えば、ある程度、
「書きやすい設定」
として決まっている方が書く方も書きやすいし、自然と読みやすい小説にあったりもするだろう。
ただ、敢えてその法則のようなものを崩して、印象付けるというやり方もあったりする。これも、一長一短があり、敢えて、いばらの道を進むかどうかというところであろうか?
プロでなければ、ある程度までは許される。そういう意味で、どこまでが許容範囲なのかということを知っておくことに損はないだろう。
だが、そのことばかりにこだわっていると、堅苦しい文章になったりする。それをなくそうと、気楽に書けるようになるために、最初に努力するというのもありではないだろうか。
無意識に、散文のつもりで好き勝手に書いていると思われる文章であっても、そこには少なからずの作者の葛藤のようなものが潜んでいるということを、読み手だけではなく、書き手も認識しておく必要があるだろう。それこそが、
「後で楽ができる」
という意味での勉強にあるのだ。
それが、無意識であればあるほど楽だというもので、それを無意識にできるということも、その人の技量の一つであり、一種の才能のようなものだといえるのではないだろうか?
小説を書く時、何に重点を置くか? どうすれば楽に書けるか? などを考えていると、いつの間にかプロットができていることが多い。もちろん、枝葉になるような発想は、日ごろからふと思いつくと、メモに書くくらいのことは必要である。それは、心がけというだけのことで、努力の範疇なのか、それだけ、楽に書けることが大切なのかということを、いつも考えているのだった。
どこに視点を置くかということを考えていると、ふと思いついたのが、前述の、
「三姉妹」
という発想だった。
三兄弟という発想よりも、三姉妹というものに興味を持つのは、自分の中でのアブノーマルな思いがあるからなのかも知れない。
「自分の中で小説を書くとして、絶対に書けない。あるいは、書きたくないというジャンルの小説」
というものがあったりする。
よく書いたり、書きたいと思っているものと隣り合わせだったりするものなのだが、意外とそういうものだったりするのかも知れない。
自分が、書きたくないと思う小説は、ケイタイ小説のような、
「無駄に空白が多い小説」
であった。
本当であれば、短編やショートショートの方が書くのは難しいといわれる。
それは、書いていてごまかしが利かないからだと思っている。長編であれば、描写などを多彩にすることで、ある意味潰しが利いたりするものだが、短編だと、書きたいことがまとまらずに、ダラダラいってしまわないとも限らない。長編でも同じことが言えるのだが、どうしても、虚勢を張るような話になってしまい、支離滅裂になりがちだからだ。
だが、最初の頃はそれでもいいと思っていた。思いついた言葉をいかに繋いで行けるかどうかが、小説を書けるようになる秘訣だと思ったからだ。言葉が思い浮かびもしないのに、その場で一番いい表現が思いつくなど、ベテランでも難しいことだ。最初から、心がけておかなければ、できないことではないだろうか。
そういう意味で、無駄に空白の多い小説を見ていると、最初から選んできた言葉に思えて、まるで、積み木遊びのように思えるのは、自分だけだろうか?
やはり、言葉を巧みに扱えるようになってからの取捨選択でないといけないと思うのだ。変に楽をしようとすると、ロクなことはないと思えてきた。それは、前述の、
「楽ができるから」
という発想とは矛盾しているようだが、それはあくまでも、
「最後まで書き上げる」
というところから始まった発想だったのだ。
小説がなかなか書けないという人は、最初から、
「自分に、そんな簡単に小説なんか書けない」
と思っているからで、いくら、気合を入れて書こうと思えば思うほど、書けないという負のスパイラルに嵌り込んでしまうのだった。
小説が書けないのは、書くことができないという思い込みから、すぐに諦めてしまうくせがついてしまうからであった。思い込むことで、書けなかった時の言い訳が、自分の中で形成され、そのことが、逃げを簡単にするということになってしまうのだった。
だから、逆にできなかった理由の一つとして、
「簡単にはできないことを、楽して書こうなんて思ったからであり、自分には小説を書く資格はないんだ」
と思うことにすれば、自分が傷つかないと思っているからなのかも知れない。
そんな自分が書きたくない小説が、ケイタイ小説であったり、ライトノベルも同じような理由でできないと思っている。
あとは生理的にダメな恐怖もの。つまりホラーであるが、類似したジャンルとして、オカルトは得意だと思っている。そもそもオカルトというのは、超自然的な現象を取り扱ったり、都市伝説や、普通の伝説のような、現代版や昔から伝わっている話を題材にするのが好きなのだ。特に、最後の数行で、読者を唸らせるような小説。そういう話にオカルト、あるいは、
「奇妙な味」
と呼ばれる小説があるということがミソであった。
そういう意味でも、
「好きなものというのは、嫌いなものと背中合わせだったり、隣り合わせだったりする」
と感じるのだ。
それこそ、
「長所と短所」
というものの関係のようで、
「小説というのは、思っている以上に奥の深いものだ」
と感じさせるのであった。
また、書けないジャンルとしては、恋愛小説は書けないと思った、そして、これはジャンルではないが、書けないものとして、ノンフィクションだと思っている。
ノンフィクションが書けないというより、書きたくないというところから出発していると思うのだが、これも結局は、
「楽をしている」
というところから来ている。
決して楽というわけではないのだろうが、自分の中で納得ができないのだ。
「小説というものは、あくまでも、自分オリジナルで実際にあったことを、そのまま書くだけでは嫌だ」
というものだ。
ただ、自分の経験から、創作物語を書くのは十分にありだと思っている。その分岐点が自分の中では曖昧で、私小説、随筆、エッセイなどは、書けないというよりも書きたくないのだ。
さらに、自分の書き方から、
「どの口がいう」
というものとして、評論、レビュー、などもその一つであろう。
小学生の頃に嫌いだったものの中に、
「読書感想文」
があった。
何が悲しくて、人が書いたものの感想文を書かなければいけないのか。まるで、同じ賞に応募し、自分以外の人が受賞し、その人に、
「おめでとう」
と言わなければいけない立場のようではないか。