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天ケ瀬三姉妹

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 が、芸術と結びつくことで、純文学を形成していると考えると、純文学の芸術至上と、文学によるジャンル分けという発想が、
「純文学は、大衆文学と分けることもできない気がするし、小説の中の一つのジャンルとして分けることもできない。つまりは。ジャンルの中にも純文学が入り込み、曖昧なところで蠢いている存在なのではないかと考えられる」
 という気がしているのだった。
 作者には、純文学というものはなかなか分からないといってもいいかも知れない、自分の書いている小説は大衆文学には違いないが、正直、何が芸術性なのか分からない。
 表現が文学的なものが、芸術的なのか、ストーリー展開が芸術的なものだというのか、そもそも、ストーリーに芸術性なるものが存在するのか? そもそもの芸術性とは何なのか? その、そもそもの芸術性と小説をどのように結びつけるというのか?
 いろいろと考えているうちに、
「純文学の何たるか?」
 ということを考えていたのと、方向性が違うように感じてくるから不思議だった。
 作者は別に純文学を目指そうというわけでもなく、大衆文学の中で、何を目指そうというわけではない。ただ気になっていることとして、
「ジャンルという区分けではなく、文学性や娯楽性という意味での区分けとして、純文学や大衆文学があるのだとすれば、それらを探求することは、小説に味を出させることになるのではないか?」
 と考えるだけだった。
 小説というものに、必要なものとして、その一つにプロットというものがある、マンガの世界では、ネームというものなのかと最初は思っていたが、どうやら、マンガにもプロットが存在し、そのプロットからネームを起こすものだという。
「映画などの映像作品で、シナリオがあって、コンテを起こすような感じなのか?」
 と思ったが、そうやって考えると、作品を作るうえで、小説というのは、途中にいろいろない分楽だといえるかも知れない。
 しかし、小説でいうプロットという中身の幅が広いという意味で、例えば、
「マンガにおけるプロットとネームを足したものが、小説でいうプロットになる」
 と考えれば、小説でいうプロットが、
「広義の意味でのプロット」
 であり、
「マンガでいうところのプロットというのが、狭義の意味でのプロットになる」
 といえるような気がしてきたのだ。
 だが、小説の場合のように広義であると、プロットを作るのは、ある意味、
「人それぞれ」
 ともいえるだろう。
 ただし、プロとなるとそうもいかないのではないだろうか。
 バックには出版社があり、まず出版や連載をする前に、作家、あるいは、編集者と話し合ったうえでの企画を立案し、企画書のような形にしたものを、編集者が会社に持ち帰って編集会議に掛ける。
 そこで、連載であれば、ページ枠などの関係で、誰の作品を採用し、それくらいの枠で作品をお願いするかが話し合われる。
「毎回、原稿用紙三十枚分」
 といった、ザックリしたものが、決まる。
 それを小説家に連絡し、そこで初めて、小説家の執筆になるのだが、そこで最初に作るのがプロットになるだろう。
 だから、プロットの大まかな部分はすでに出来上がっていて、そこに編集会議で決まった出版社からの要望などが加味される形で、プロットを作ることになるのだ。
 その時、まず考えるのが、普通の人であれば、いきなりジャンルだと思うかも知れないが、まず決めるのは、
「読者へのターゲット」
 である。
 相手を男性に絞るのか、若年層なのか? その中でも中高生なのか、大学生以上なのか? さらには男か女か? などを考えることで、何となくの内容が頭に描けてきて、大まかな登場人物、最後はハーピーエンドなのか、そうではないか? などが決まってくる。
 そこで初めてジャンルが決まるのではないか。そしてその後に、書き方の目線に関わってくる。一人称視線なのか、三人称視線なのか、それとも、場合によっていろいろな視線に代わる神視線というものなのか、などである。
 ちなみに作者は、今までほとんど、一人称で書いたことがない。最初は一人称で書いていたこともあったが、なぜか途中から、視線が三人称に代わっていたりした。そのため、最初から三人称が多くなったのだ。
 それも、登場人物の目からではない。まるで、ドラマなどのナレーションが入っているかのようなイメージであり、ある意味、
「この書き方が楽だ」
 と思えるからなのかも知れない。
 ただ、それがいい小説を書くということと結びついているかというと、そうではない。別にプロではないのだから、気楽にできればいいと思っているだけである。
 小説を書く時、どの視点から描くのかというのは、それほど重要ではないが、神視線のように、いくらでも、視点を変えられるとするならば、あまり推奨しないというハウツー本が多いだろう。
 それは、読者の感情移入が、コロコロと視点が変わると分かりにくいというところにあるようだった。確かにそうかも知れない、実際に作者も、神視点というものに、
「気が付けばなっていた」
 ということは往々にしてあるが、自分からしようとは思わない。
 なぜなら、神視点というものが、表から見るほど簡単ではないからだ。
 ただ、実際に小説を書いている時、書き始めてしまうと、気づかない間に神視点になっていることはあるものだからだ。
 というのは、小説を書くということは、作者がすべてを握っているといえるからである。
 プロットを書いた時点でもそうだし、書きながらでも、ストーリー展開をどのようにしようかなどと考えていると。絶対的に、作者は読者よりも、先の展開を知っているからなのだ。
 つまりは、作者の思想が、すでに神視点になっているのだ。いくら、神視点にしてしまうと、読者が感情移入しにくくなるといわれようとも、作者自体が神視点で小説を書こうとしているのだから、難しいといえるだろう。
 ドラマを見ている場合、ブラウン管(古いか?)に映った映像が限られた場面を切り取っていることで、場面を絵コンテのような形で見ることができないと、正直、ドラマにはならない。しかし、それらをスタジオのセットのように考え、その場面を、まるで箱庭の外から覗いているように思えば、まわり全体を見ることができる。それが一種の神視点というもので、全体を見ることができるが、そのかわり、すべてが見えてしまうので、どこに集中していいのか分からない。ドラマはその必要な部分に、ふさわしい視点で映し出すことによって、ストーリーが完成する。箱庭を見ているのが、まさに神視点なのだといえるだろう。
 そういう意味で、神視点というのは、楽ではあるが、その前後の物語との絡みを考えると、実に難しいものだともいえるだろう。
「プロじゃないんだから、別に、読者の感情移入など関係ない。俺は俺だ」
 と、神視点を意識しなかったのだが、箱庭で考えてみると、神視点になってしまうことは、
「自分で自分の首を絞めるようなものだな」
 と考えるようになっていた。
作品名:天ケ瀬三姉妹 作家名:森本晃次