歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
同じ人間に生まれ変わるのか、それとも、今度は植物になるというのか。そんなことを考えていると、今自分が、考えることのできる人間に生まれて、そして生きているということは奇跡のようなものだといえるのではないかと思うと、同じくらいの可能性として、
「同じ宇宙に、人間と同等か、あるいは、それ以上の生物が生存している可能性があるのではないか」
という発想も可能ではないかと思った。
もっというと、
「人間に限らず、どこかに生物が存在している可能性は、自分が死んだら、何になるか分からないが、生まれ変われる可能性に近いのではないか?」
と考えるのも、無理のないことのように思うのだった。
ただ、これも、地球という世界を、
「至上主義だ」
と考えるからで、死んでからいく、あの世が、その次の世界と考えるから、
「あの世は魂だけの世界だ」
と考えたとしても、無理はないといえるのだろう。
これは、人間が生まれながらに持っている感覚なのか、それとも、育ってきた環境や教育の中で学習したことで備わっていくことなのだろうか?
考えられるとすれば、持って生まれたものだという方が、かなりの信ぴょう性が高い。なぜなら、生きていく環境は人によって違っている。人間は、生まれてくることを自由に選べないのだから、当然のことである。
せっかく生まれてきたのに、あっという間に死んでしまう人もいれば、世の中で何をなすわけでもなく、ただ、寿命を全うするというだけの人もいる。
人の死に、善悪という考えがあるのかどうか分からないが、どうしても勝手な発想になってくるのだった。
そんな、
「至上主義」
という考え方であるが、個人という考えではなく、
「時間軸」
という考えで、物事を見てみると、いろいろと面白いものが見えてくる。
例えば、時間というものが決まった感覚で動いていると考えると、
「過去があって、現在がある。そしてさらには未来が広がっているのだが、今の現在が過去になり、一番近い未来が現在になる」
ということなのだが、それをたとえとして、
「打ち寄せる波のようだ」
と考えることはできないだろうか?
目の前に見えているものが、波に攫われて、波打ち際までもってこられる。しかし、そのうち返しによって、また沖に流されそうになると、またしても波が襲ってきて、波打ち際に持ってこられる。その繰り返しなのだが、至上主義というものを現在ということに限っていうと、過去や未来は、生きていくうえで、直接は関係してこない。もちろん、次に判断が必要なことであれば、過去を思い出して、未来に対しての選択を最善にしようと考えることだろう。
しかし、普通の人はそれを無意識にできるのだ。それが、人間の本能であり、その本能を証明するものとして、前述の、
「フレーム問題」
が、関わってくるのではないだろうか。
フレーム問題を、人工知能は解決できないが、人間は無意識のうちに考えることができる。それを、本能であったり、遺伝子による伝承されたものだと考えることもできるが、これを、
「前世からの記憶によるものだ」
と考えるのは危険なことであろうか?
ここには、
「人間至上主義」
というのがあるからで、
「人間だけが、思考能力を持っていて、頭で考えて判断することができる」
と思うからだった。
逆に、本能と遺伝子によるものだといえるのは、人間に対してではなく、他の動物に対してのことだ。
人間にそう思ったのは、あくまでも、人間も他の動物と同じ、動物という括りで考えているからであって、基本的に人間というのは、
「考えて行動できる唯一の高等動物だ」
といえるからではないだろうか。
それがいわゆる、
「人間至上主義」
であり、この考え方を正当化させるために、
「人間は、神を創造した」
といえるのではないだろうか。
つまりは、
「人間が、他の動物よりも偉く、選ばれた生物であることから、他の動物を支配したり、同じ人間をまるで家畜のように支配することのできる世界を肯定するために生まれた発想だ」
ということになれば、それこそ、
「ニワトリが先かタマゴが先か」
という、禅問答のような言葉が出てくるのである。
何しろ神話では、
「神が人間を作った」
と語られているのであって、
「人間が神を作った」
などという発想は出てこない。
この発想は、一石二鳥のような二段論法であり、
「人間が神を作ったという発想を打ち消すことで、人間には他の動物、同じ人間でも支配階級と支配される階級に分けることができる」
という発想に正当性を与えるもので、なぜなら、
「人間というものは、他の動物と違って、生きるために仕方がないという理由以外の、自分の利害だけを持って、平気で人を殺すことができるからである。神によって、その力が認められてないと、できない発想である」
それを、
「生殺与奪の権利」
というのである。
そんな論理は、自分たちよりも偉い存在がなければ、正当化はできないだろう。つまりは、人間至上主義に対しての矛盾である。
そのために、作られたのが神だとすれば、ギリシャ神話のように、
「オリンポスの神ほど、人間臭い存在はない」
といってもいいのではないだろうか?
だからこそ、神を創造する必要があったと考えると、そこに潜んでいるものが、
「人間至上主義」
だといえるだろう。
これは人間だけではなく、支配階級にいる者であれば、誰もが至上主義になり、生殺与奪であろうが、支配者としてであろうが、権利を持っていれば行使したくなるのは当たり前のことである。
人間至上主義という言葉の定義として、
「農業革命の際に、宗教 (神と契約すること)によって 他の動物を支配することを正当化するようになり、人間中心的思想が台頭した」
という発想があるようだ。
これは、支配する側が人間であったというだけのことで、他の動物であっても、同じことであろう。
しかし、他の動物は、同一の種族同士で支配しあうだろうか? 人間だから人間を支配できるのである。それは、神というものを自分たちの支配する言い訳に使えるからだといえるだろう。
ただ、他の動物ということになると、なかなか解釈が難しいところがある。
たとえば、犬で考えた場合であるが、
「犬というものを、一括りで考えた時に、支配するのがドーベルマンという種類であった場合、他の種類の、たとえば、シェパードなどという犬は支配される側ということになるのだろうか?」
ということである。
つまりは、犬の中にも種族がいて、その間で、支配する側、される側と別れているとすれば、人間も、人種によって差別を受け、先進国の人種と、後進国の人種、あるいは、戦争によって、勝者側と敗者側に分かれることで、支配は確立するということになる。
それは、人間の場合は、同じ民族であっても、同じ国家であっても、主義が違えば実際にあることだ。粛清などという言葉の下に、支配階級にとってふさわしくない思想を掲げる連中は、容赦なく粛清する。それこそが、人間の人間たるゆえんだといえるであろう。
そういう意味で、人間至上主義というのは、
「人間が一番偉い」
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次