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歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ

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 なぜなら、パラレルワールドというのは、決して見ることができないもので、観測は不可能だということになれば、その存在を否定することも、肯定することもできないのだ。
 もし、できるとすれば、向こうの世界からこちらの世界にやってきた、パラレルワールドの住人がいて、その人の存在を証明できれば、パラレルワールドを証明できるに違いないのだが、まず無理ではないか。
 ここで、
「パラレルワールドの人間が、こちらにやってくる」
 という仮説を立てたとすれば、彼らがこちらの世界をどこまで熟知できているのか分からないが、少なくとも、
「もう一人の自分のところに現れるであろう」
 と考えられるのではないだろうか。
 そう考えた時、
「おや?」
 と頭の中で、一つのことが思い浮かぶのであるが、その発想が、
「ドッペルゲンガー」
 というものであった。
 ドッペルゲンガーというのは、
「世の中には自分に似た人間が三人はいるという」
 という、
「酷似した人間」
 ではなく、あくまでも、
「もう一人の自分の存在」
 ということである。
 そこで、
「ドッペルゲンガーというのは、パラレルワールドからやってきたもう一人の自分ではないか?」
 という発想である。
 あくまでも、似た人間ということではなく、本人そのものということであり、しかも、それが、同じ世界のという但し書きがついていないことで、パラレルワールドの人間だと考えると、これも、まさか、パラレルワールドが、タイムパラドックスの証明と考えられているのと同じように、
「パラレルワールドは、ドッペルゲンガーの証明だ」
 と考えるのは、無理もないことだが、そう考えると、
「パラレルワールドという考え方は、この世に存在しているさまざまな都市伝説であったり、科学では解明できないことを証明するための創造物だ」
 と思うことも無理のないことに思えた。
 そもそも、ドッペルゲンガーというものは、都市伝説的な話が多い。
 たとえば、言われていることとして、
「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来、死んでしまう」
 ということであった。
 しかも、歴史上の有名人、著名人が、ドッペルゲンガーを見たということで、それからすぐに亡くなってしまったという事例が数多く残されている。しかも、縁もゆかりもなく、時代も場所もさまざまな人間がである。
 もっとも、現代に近い人が、自殺をするつもりで、最初から死を計画していて、最後にさらに名を残そうとして、ドッペルゲンガーを捏造したといえなくもないが、
「果たして複数の人間が、そんな心境になれるのだろうか?」
 ということである。
 ただ、逆の発想として、
「人間というのは、死を前にした時、皆あの世に導かれるようにして、今まであれば、見えもしないものを見たり、想像するのだとすれば、それが妄想となって、皆同じ心境になるのかも知れない」
 とも言えないだろうか。
 ドッペルゲンガーを実際に見る見ないは別にして、心境としてみたような気がすることから、他の人には見えない、
「死を目前にしたことで見える鏡」
 のような媒体が存在しているとすれば、それをドッペルゲンガーだと考えたとしても、無理もないことだろう。
 しかし。もっと言えば、ドッペルゲンガーを見たといわれる著名人のエピソードを聞いていると、皆、ハッキリとドッペルゲンガーを見たと言っている人はいない。
「自分を見た」
 という人はいたようだが、それによって、その人がドッペルゲンガーを逸話を知っていたとしても、普通であれば、
「そんなの迷信だ」
 と思うことだろう。
 だとすれば、普通なら、そんな不吉なことを自分から口に出すことはしないはずだ。そんなことを口にしたから、命を失うことになったといって、あの世で悔やみたくはないと思うだろう。
 そう思うと、ドッペルゲンガーというものが、普通の人の精神にもたらす影響と、これから死んでいく人間に与える影響にかなりの差があるとすれば、ひょっとすると、ドッペルゲンガーを意識したことで、その人が死を初めて意識することになったのかも知れない。
 存在だけが、人の死に影響をもたらすのだとすれば、本当にドッペルゲンガーというものが存在する必要はないのかも知れない。
 必要なものは、自分を映す鏡という媒体であり、その媒体が本人にしか見えないことが重要なのだ。
 そう考えると、ドッペルゲンガーの存在よりも、パラレルワールドが存在していて、そちらの人間が、こちらの人間の死に何かしらの影響をもたらしていると考えた方がいいのではないだろうか?
 ちなみにドッペルゲンガーというものの特徴として、いくつかある中で。
「決して言葉を発しない」
「この世界での本人の行動範囲以外には現れることは決してない」
 という点においてだけでも、それなりに。信ぴょう性のあることではないだろうか。
 鏡であること、そして、その鏡が映しているのが、自分なのか、それとも、パラレルワールドの自分なのかということである。
 ドッペルゲンガーと呼ばれているものが、パラレルワールドにおける個人であると考えると、いろいろ納得できることもあったりするのではないだろうか。少なくとも、鏡という発想は、媒体としてはありえることではないだろうか?
 そんなことを考えていると、もう一つの考えが浮かんでくる。
「パラレルワールドという世界は、本当の世界ではなく、虚偽の世界だ」
 というものであり、そこには、
「パラレルワールドが、魂だけの世界ではないか?」
 という考えに至ったからだ。
 これはあくまでも、
「本人至上主義の発展形」
 とでもいうべきかも知れないが、要するに、
「こちらの世界が本当の世界であり、パラレルワールドという、科学では証明できないことを解決してくれるトリガーとしての世界を作り出すための、虚像の世界だ」
 という発想である。
 そもそも、この発想がどこから来たのかというと、死後の世界の発想からだ。
 死後の世界というのは、いろいろな発想があるだろうが、言われていることとして、人は死んだら、魂が身体から離れて、どこかの世界。いわゆるあの世に行ってしまうという話である。
 魂が肉体から離れることで、
「魂は死なない」
 ということになり、逆に、
「形あるものは、必ず滅びる」
 という、
「諸行無常」
 という発想が生まれてくるのだ。
 つまり、
「人間は決して死ぬものではなく、魂となって別の世界にいくというもので、形あるものが滅びた後は、この世の中の循環にしたがって、土に返るということで、そこから、人間は土から生まれた」
 という発想も成り立つのではないかと思うのだった。
 生物に限らず、いわゆる有機物というのは、滅びても形を変えるだけで、そこから違うものに生まれ変わるという発想である。
 では、人間をはじめとした生き物はどうだろう?
 死んでしまって、魂だけになると、いわゆるあの世にいくのだろうか? そして、あの世で再生の機会を待つことになる。しかも、生まれ変わるとしても、何に生まれ変わるというのか。