歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
過去の時間軸が消えていくのか、それとも、以来の時間軸が決まっているというのか、それは個人を対象とするのか、何を対象にするのかで変わってくる。
それを考えると、四次元の世界と宇宙を結びつけて考えるとするならば、宇宙も無限ということはありえない。これは究極の考えであるが、
「無限というのは、人間が創造している、最高の指向なのではないか?」
という考えは極端かも知れないが、そう考えることが、一番の理屈なのかも知れないと思うのだった。
「人間は考える葦である」
とパスカルは言ったが、その言葉を思い出した、草壁だった。
このパラレルワールドと宇宙という感覚で、草壁は研究していた。
並行宇宙という意味の宇宙という言葉とは、少しニュアンスが違うもので、
「並行宇宙の中の宇宙は、並行しているものという意味で、時空のことを意味しているのではないか?」
と考えている。
パラレルワールドの中に存在する宇宙と比較する宇宙というものが同じものだという理屈も、普通であれば、解釈に矛盾があるといってもいいだろう。
そう、ここでいう宇宙というのは、それぞれの世界を表す「宇宙」という言葉ではなく、本当の意味で、存在している「宇宙のことである。
パラレルワールドという世界が、そのすべてを包み込むであろう宇宙に、いくつ存在するというのか?
また、いくつも存在するといわれるパラレルワールドのもとになっている世界も、本当に一つなのか?
というのが、パラレルワールドという世界を、
「同一次元の中で別の世界(時空)が広がっているものだ」
と解釈しているのであるから、
「別の次元でのパラレルワールドというものが存在している」
という考えは成り立つのだろうか?
そんなことを考えていると、次第に頭が混乱してくるのを感じた。
「一つのことを納得できない間に、余計なことを考えるのは、危険である」
という考えが本当のところなのだろうが、
「そんな余計なことが、納得できないことに影響を与え、一つの光明を示すかも知れない」
という考えも無きにしも非ずということで、あながち、否定もできないのではないかと考えるのであった。
ただ、まだ中学生だったこともあって、余計な発想が混乱を招くことになったり、メモに書いておいても、書いたことが後から見て、混乱するようでは、メモの意味がないようにも思えるのだった。だが、そんな中学時代に、
「表に対して必ず裏がある」
という考えに至ることができたのが、その後の草壁の人生において、大きな分岐点となったということは言えるのではないだろうか?
中学生の頃の頭で、宇宙というものを考えた時に、最初に思いつく発想は、
「無限」
ということであった。
そして、自分が他の人と発想が違っていると思ったのもこの時で、無限というものを考えた時、宇宙と無限が一緒のものだという発想を飛び越えて、
「無限というのは、本当に存在するのだろうか?」
という発想だった。
確かに、無限という概念を考えた時、理屈に合わないようなことを、
「無限」
という発想で考えた時、強引にでも、納得させることができると考えていた。
しかし逆に、無限という発想があるために、すべての矛盾を無限で解決しようとすると、さらにその先にある矛盾にぶつかってしまって、結局解決にならないということも少なくはなかった。
たとえば、
「無限からは、何を割っても、無限しか残らない」
という、フレーム問題にも絡むものであるが、これは、無限というものを、
「すべての一つのものだ」
と考えるからではないだろうか。
もっとも、そのように定義して考えたから、「無限」という発想が生まれてくるのであって、
「無限というものにも種類がある」
と考えると、一歩先を見ることができる。
それを、
「広義の意味と、狭義の意味」
として考えればいいのか、それとも、
「無限という言葉にいくつかの別の意味がある」
と考えればいいのか、それが難しい。
そう考えると、
「いくつかの、「無限」という言葉を示すものの一つとして存在するのが、パラレルワールドなのではないか?」
というのも、一つの発想なのではないだろうか?
そういう意味で、
「無限の多様性」
という言葉がふさわしいのかどうか分からないが、無限というものを、一つの大きなものとは別に考えてみるのも、
「物事を柔軟にみる」
という意味で、面白いことではないかと思うのだった。
別次元ということで、
「四次元の世界」
というものを創造した時、テレビドラマなどでは、三次元と四次元の間で扉のようなものが開いた時、
「姿は見えないが、会話をすることができる」
ということで描かれている。
そういう形で示さない限り、映像作品にもならないし、小説のようなビジュアルに関係のないものでも、読んだ人が自分で想像することで作り上げる世界なのだから、それこそ、自分に都合よく解釈することであろう。
それを思うと、双方向からの発想として、会話ができなければ、見ることができないので、四次元の世界の存在を証明することはできないだろう。
ただ、それをパラレルワールドに置き換えたとすればどうだろう?
四次元の世界とパラレルワールドという発想の大きな違いは、
「四次元の世界に、自分という人間は存在しないが、パラレルワールドという並行世界という発想は、向こうの世界に、自分と同じ人間が存在しなければ理屈として成り立たない」
ということなのではないだろうか。
言い方を変えれば、
「鏡のような世界」
といえるかも知れないが、鏡との決定的な違いは、こちら主導であって、相手は、媒体的な存在でしかないということなのだ。
パラレルワールドは、あくまでも、
「並行的に存在している世界」
ということであり、酷似はしているが、あくまでも、鏡のような主導がどちらにあるというものではないだろう。
そんな発想を宇宙というものと見比べて考えた時、
「広い宇宙の中には、地球と同じような星が存在し、そこには、自分と同じ人間が暮らしているとすれば、それがパラレルワールドなのではないか?」
ということである。
つまり、別の世界(時空)というものが、遠く離れた宇宙にあるどこかの星だと考えた時、同時に感じるのが、
「宇宙の広大さ」
ではないだろうか。
その広大さが、無限という発想につながるのであって、そこで無限と考えることが、一足飛びでいきなりだとは、誰も考えないかも知れない。
もし、落とし穴があるとすれば、
「無限というものを、一足飛びに考えることであり、ただこの空想が科学者としては危険であるが、クリエーターには、面白い発想になるかも知れない」
小説や、空想物語の中でのこの発想は斬新であり、無限というものを曲がりなりにも定義できるとすれば、まずは宇宙からだという発想は、仕方のないことであるといえるのではないだろうか。
アインシュタインが、相対性理論に結びついたのも、この宇宙空間というものを全体として把握していなければ、結びつくものではないだろう。
ただ、そこに、無限というものを一足飛びに発想したのだとしても、何か、
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次