歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
しかし、草薙は、他の連中のように、作家になりたいという気持ちはほとんどなかった。しかも、自費出版社系の末路を見てしまった以上、さらに深みに嵌るようなことはしたくないのだった。
だから、本に違和感を感じたことで、もう途中から読むのをやめてしまった。それからであろうか、草薙の小説は、小説というよりも、論文に近いものができてきたのだ。
論文との違いは、論文の場合は一つのテーマに特化して、研究を進め、そこに正解を導き出そうとして書くものだと思っている。
しかし、小説の場合は、論文とは似ているが、一つのテーマではなく、一つの結論を得るために、複数の論文でテーマになるような話を折りまぜ、一つの話に作り上げるという手法だった。
だから、正解を導き出すのが論文であれば、小説は、
「自分を納得させるものを書きたい」
というのが、テーマである。
前述の、
「読者に感動を与えるような」
という、ハウツー本ではなく、あくまでも中心は自分であり、その自分が納得できるかどうかというのが、最終目的だということであった。
そんな怒りがこみあげてくる本を読んでいると、なぜ、自費出版の会社がダメになっていったのかが分かる気もしてきた。
「出版界全体が、読者のためということに終始してきたにも関わらず、やっていることは、自分のことだけしか考えていない。しかも、著者を騙しているという認識があったのかどうか、出版社はおろか、本を出そうとする人間たちもまったく疑問に思っていなかった。あるいは、思っていたかも知れないが、それを口に出すことが恐ろしいと感じたのか、そのあたりの気持ちの中の矛盾が引き起こした社会問題だったのではないか?」
と思うようになってきた。
小説というのは、何も、テレビ化や映像化するために書くものではない。そして、読者をターゲットにするというのは悪いことではないのだが、それが、
「金儲けのため」
ということがハッキリしている以上、読者を金としてしか思っていないことを、詭弁を使って、正当化しようとしているのだと思うと、
「読者のため」
という小説に、何の意味があるのかと考えるのだった。
「自己満足でもいいではないか」
それが、草薙の場合は、論文のような小説である。
ただ、彼だって、物語風の小説に醍醐味を感じたことで小説を書きたいと思ったのは、間違いのないことで、今でもそれは変わっていない。
だから、完全な論文ではなく、
「論文風作文」
というイメージになっていた。
途中に、自分の意見を取り入れる形で論文となるだけで、それは、別に悪ういことではない。
どうしても、
「読者に読んでもらう小説が、いい小説だ」
という当たり前の考えが出てくる。
箸にも棒にもかからない小説というのは、読者にも読もうという気が起こらないものではないだろうか。
草薙は、そのあたりにジレンマを感じていた。
「俺の書いている小説は、どう見ても、読者には受け入れられない小説なので、箸にも棒にもかからないということになるのだろうか?」
という疑問というか、ジレンマであった。
それでも、
「自分で満足できないものを、他の人に見てもらおうなどというのは、おこがましいことであり、失礼に当たるのではないか?」
と思うようになっていた。
あくまでも、自分が書いている小説は、
「草薙風小説」
というジャンルでもいいのではないかと思うようになっていた。
「これだったら、論文を書いている方が、楽だったりするかも知れないな」
と思った、
論文と小説とでは、まったく違う。いくら自分が、、
「論文風小説」
を書いているからといって、論文ではなく、小説なのだ。
そこには大きな結界が存在し、その結界は決して飛び越えるものではない。
同じ人間が書いているとしても、それはあくまでも、書いている時は、
「自分であって自分ではない」
といえるのではないか。
小説を書いている時の自分が、まるであの世にでもいるかのように感じることで、小説を書くことを苦にすることはないように思う。だとすると、あの世というのは、霊界なのではないかと思った、唯一上に上がれることのできる発展途上の場所というのが、霊界だからである。
パラレルワールドというものが、
「タイムパラドックスの証明になる」
と言われている。
つまり、タイムパラドックスというのが、並行世界ということなので、タイムトラベルで過去に行ったとして、その時には、パラレルワールドにしかいかない。だから、パラレルワールドなので、未来を変えたとしても、こちらの世界には影響を及ぼさないということである。
そうなれば、
「パラレルワールド側で、パラドックスが起きるのではないか?」
と思われるかも知れないが、起こした原因が、別の時空の人間なので、完全に外的な要因であることから、別にその時代の人間が、歴史を変えたわけではないので、別にパラレルワールドにおける、
「過去、現在、未来」
には何ら影響はないといえるだろう。
そんなことを考えてみると、天界の話にしても、宇宙の外の世界を、死後の世界と捉えることも、何かしらの、
「証明」
というものになっているのかも知れない。
時刻が、時系列になって、等間隔で刻まれていくことで、そこで出来上がる歴史というものは、そのひとつ前の世界がすべて証明してくれているのではないだろうか。
確かにパラレルワールドというものが存在しているとしても、それも、時間の積み重ねによって作られる、
「歴史の証明」
だといえるのではないだろうか。
それを考えると、小説家を目指す人たちが、自費出版社に引っかかったというのも、ある意味、
「歴史が証明していた」
ということなのかも知れない。
「ちょっと考えれば。詐欺だと、どうして誰も気づかないんだ?」
と思うんだが、これも、もし、気づく人が少しでもいて、その人たちは引っかからないだけだとすれば、どうなるだろう?
「俺たちは、そんなくだらない詐欺には引っかからない」
というだけで、引っかかった人間を、鼻で笑っていることだろう。
それはそれで、別に悪いことではない。それこそ、当然ではないかと思うほどではないか。
ということになると、
「騙される方が悪い」
ということであり、下手にそこで、騙されなかった人が、
「あれは詐欺だ」
と、正当なことを言ってどうなるというのだ。
「皆、信じているのに、何てことをいうんだ」
と言って、余計なことを言ったとして、まわりから白い目で見られるのが関の山だ。
詐欺を見抜く力があるのだから、それくらいのこともすぐにわかって当然であり、多数が賛成すれば、それが正義だとでもいうような、まるで苛めすら正当化するような、悪しき民主主義を地でいっているようなことになるのっではないだろうか。
それを考えると、
「騙される方が悪い」
ということで、放っておくだろう。
そうなると、騙されている人間はどんどん増えてきて、遅かれ早かれ落ちぶれる、
「自費出版ブーム」
の崩壊に巻き込まれてしまうことになるのだ。
しかも、お金を出して本を作っても、売れるどころか、損をしてしまうのだ。
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次