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歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ

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 へと発展していく中で、宗教的なニュアンスで結びついていたと考えられる。
 女王「卑弥呼」が君臨できたのも、預言者だったということがあるからであり、預言者が宗教を伝えるという話は古代からあったのかも知れない。
 古墳時代の巨大な陵墓も、
「宗教がらみではないか?」
 と考えると、納得のいくものではないだろうか。
 宇宙においても、一つ考えていたことがあった。
 それが、
「宇宙の外が、どうなっているか?」
 ということであった。
 きっと、このことについては、誰もが子供の頃に一度は考えたことがあるのではないかと思う。
 もちろん、考えていることが正しいなど思いはしない。見ることができないのだから、証明もできるはずもないので、それを正しいのか間違っているのかということを誰もはかり知ることはできない。
 しかし、発想というものが大切で、その考え方に説得力があれば、十分な世界だった。そういう意味で子供の頃に考えたことというのは、えてして、想像以上に考えられたことだといえるのではないだろうか。
 草薙もこのことを小学生の頃に考えて、今でもその意見は変わっていない。つまり最初に感じたことが、初志貫徹として、ずっと続いているのだった。
 その考えというのは、
「宇宙の外の宇宙には、死後の世界が広がっているのではないか?」
 ということである。
 つまり、
「天界というものが広がっている」
 という発想である。
 小学生の頃は、あくまでも、死後の世界というだけで、宗教でいうところの、天界という発想はなかったのだが、子供心に考えていた死後の世界が、のちに研究して得た知識としての、天界に結びついてくると、自分の想像もまんざらでもないと思うようになってきたのだ。
 天界というのは、
「逆ピラミッド型をしていることで、上位の世界にいくほど、世界が広がっている」
 ということであった。
 ただ、同じ死後の世界でも、宇宙の外に、地獄という世界があるのかどうかは分からない。ただ、存在しているとすれば、これはあくまでも、勝手な発想ということではあるが、
「地獄というのは、宇宙の果てにある」
 という考え方だ。
「では、宇宙の切れ目、その外というのは、どうやって見分けるのか?」
 ということであるが、
「宇宙の切れ目は、あくまでも、この世の世界か、あの世の世界かということで分かれているのではないか?」
 と思うのだ。
「では、地獄は、あの世ではないのか?」
 ということになるのだろうが、あくまでも、地獄というのは概念であり、実はこの世に存在しているものではないかと思う。
 この世において、あの世に行くことができない死後の世界。しかし、生存していた世界に戻ることは決してできない。戻ることができたとしても、それは、人間としてではなく、動物としてである。
 それが、一番の不幸であり、地獄に行くようなレベルの低い魂にしてしまったことへの、罪に対しての罰ではないかといえるのではないだろうか。
 つまり、宇宙の外に広がっている、あの世というのは、決して暗黒の世界ではなく、天界を照らす、眩しいまでの光が当たることで、二度と、元の下界、つまり、元の宇宙に戻ることはなく、天界で幸せな日々を永遠に過ごすことになる。
 霊界に進んだ人間も、いずれは、神界に召されることになる。それを待っていればいいのであるが、霊界に行った時点で、神になる素質は十分だということだろう。
 皆が神界に行ってもいいくらいに、広大な宇宙が広がっている。それが天界の頂点であり、人間が肉体世界の中で目指すものであるということなのだ。
 この世の春というものとは比べ物にならないほどの春が、あの世に待っているというのは、天界を創造した、宗教だといえるだろう。
 草薙は、決して宗教を信じているわけではないが、この天界という創造物、そして、宇宙の外に広がっている世界を、天界だと考えることに、まったくの疑問を感じることもなく。すべてに納得がいく気がしているのだ。
 科学で証明できるわけではないが、
「科学で証明できないことは起こりえないという考えは、それこそが、科学への冒涜になるのだ」
 という考えを生み出すのだった。

                 大団円

 草薙は、いろいろな小説を書いてきたが、最初の頃は、物語性のあるものを結構書いていて、自分でも、
「俺って、結構かけるんじゃないか?」
 と、勝手な思い込みのようなものをしていた。
 実際に、無料投稿サイトなどで、批評もできるような仕掛けになっていたので、自分の作品に対して、意見も寄せられていた。
 中には辛辣なものもあったが、結構、小説のプレビューもこちらが目的とした、
「分かってもらいたい部分」
 が伝わっていると分かると嬉しかった。
 しかし、そのうちに、
「読者が何を求めているか?」
 という考えが、少しずつ消えていったような気がする。
「人がどう思うか? 何を期待しているか? などということを考えながら書いていると、行き着く先は、読者への媚を売るということではないか」
 と思うようになったのだ。
 そうなると、自分が何を書きたいのかということを忘れてしまい、本来の、
「自分の書きたいこと、訴えたいことと、読者の見たいものが一致した時の感動を求めるのが小説執筆だ」
 という本来の目的であったり、楽しみが、元々を忘れてしまっていることを、意識できなくなってしまうのだった。
 それはきっと、ハウツー本ばかりを見ていたことで、我を忘れてしまったからなのかも知れない。
 ハウツー本というのは、いかに読者のために書くかということを中心に、その作法について書かれている。読みながら、
「なるほど」
 と思える部分もあるにはあるが、そう思えば思うほど、違和感があるのだった。
 その違和感は、次第に苛立ちに代わっていく。
「なぜ、小説の書き方のハウツー本で、怒りを覚えなければいけないのか?」
 と感じる。
 せっかく書けるようになったことで、執筆に喜びを感じてたはずなのに、いったいどうしたというのだろう?
 それは、小説を書いている時の自分が、
「本来の自分だ」
 ということを感じたいはずなのに、なぜ、人のために書くというような、歩み寄りをしないといけないのか? ということであった。
 つまりは、ハウツー本というものが、
「本来の文章の書き方という純粋な意味から、小説家になるということ、投稿して新人賞を狙うという、一歩先の目的までを網羅した本だ」
 ということだからである。
 確かに、文章を書けるようになると、小説家になりたいという人がほとんどであろう。
 小説の世界では、まず一番最初で、ひょっとすると一番大きなという意味での難関が、この、
「最後まで書き切る」
 ということであった。
 それができないから、ほとんどの人が挫折するのだ。そのことは、ハウツー本にも書かれているし、この本を読んでいる本人が一番よく分かっていることだろう。
 だから、ハウツー本を読んでいる人は、小説家になるという含みのあるこの本を、違和感なく読むことができるのだろう。