歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
ということで、預言者になってしまったのではないだろうか。
自分が死んでいるのを見たのだから、
「俺はもうすぐ死ぬ」
というのを言い残す代わりに、
「ドッペりゲンガーを見た」
ということで、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」
という伝説が出来上がったのだろう。
それともう一つ、この天界という話を聞いて、何か違和感はないだろうか?
もっとも、人間がこの発想について違和感を感じる方が、違和感なのかも知れないが、話が大きければ大きいほど、感じる違和感である。
つまり、この話は、
「あまりにも人間に特化した目線での話だ」
ということだ。
あくまでも、人間と天界という構図だけのことで、他の生物、動物、昆虫、植物の関係までは書かれていない。
宗教の言葉の中に、
「輪廻転生」
というものがあるが、これは、
「生あるものが死んだら、何度も生き返る」
というもので、
「人だけではなく、動物も含めたものだ」
といえるだろう。
そういう意味で、天界という考え方は、あくまでも人間に特化した考え方であり、人間至上主義という考えに結びついてくるのではないだろうか。
「輪廻転生」
という考えは、いくつかの宗教で謳われているが、微妙に内容も解釈も違っている。
それでもしっかりと理解されている考え方であり、仏教の基本的な考え方であったりもする。
仏教においての、輪廻転生は、
「単なる物質には存在しない、認識の移転」
だという考えに基づいている。
そして、死によって、認識のエネルギーが消滅したならば、別の世界で、類似の認識のエネルギーが生まれることで、持続する。それを、輪廻という発想だというのだ。
人間の場合はこの認識に、意識が入り、考える力が備わっている。だから、死後の世界を認識することができない。なぜなら、転生した時、前世の記憶を残さないように、果てしない間、輪廻するまで、魂は、死後の世界でただ、意識のない認識だけという形で生きている。
そして、前世の記憶がなくなったことで、生まれ変わることができる権利を得るのではないだろうか。
しかし、輪廻というものを、一つの魂だけだと考えるのではなく、世界全体で考えるとすると、
「一つの死があった瞬間に、別の生が起こる。同じ魂によるものではないが、それによって、生命は回っていく。それを輪廻転生だというのだとすれば、天界についての考えは、輪廻転生という考えに、近いといってもいいのではないだろうか?」
天界の考え方が、人の死や、生まれるという現象とのつながりを考え合わせると、その理屈の説明には、十分になっているように思える。
生死に対しての疑問であったり、理屈を解釈するうえで、天界の考え方や、輪廻転生の発想は、理にかなったものだといえるのではないだろうか。
世の中には、理屈を考えるということを、否定するような考えを持っている連中がいる。
それは、自分に都合のいい理屈を並べたいという人間がほとんどだといえるのではないだろうか?
だから、理屈っぽい人間を毛嫌いしてみたり、人間の感情が左右される場面において、理屈をこねようとすると、あからさまに、嫌な顔をされるのは、人間がそれだけ、
「感情というものは、理屈を凌駕する」
と考えられているからではないだろうか。
天界の考え方も理屈としては、十分であり、輪廻転生と結び付ければ、その共通点はかなりのものであろう、
この二つを、一つの時系列と考えず、それこそ、
「肉体に対しての魂のようなものだ」
と考えたならば、今まで及びもつかなかったようなことが思いついてくるかも知れない。
そもそも、いろいろな宗教が、あるにも関わらず、その根本は似ているというのは、宗教自体、すべては元が一つであり、その派生型だったといえるかも知れない。
今の人間が、宗教に対して懐疑的であり、あまりありがたい存在ではないと思うのも、ひょっとすると、そのあたりに問題があるのかも知れない。
俗世を捨て、宗教に走る人間を、世間はあまりいい目で見ない。それは作者も同じであるが、どこまでが、正と、どこからが、幻なのかと考える。この場合、悪というものではなく、幻だと考えているのだった。
輪廻というものを、いかに考えるかであるが、
「人間が人間に生まれ変わると考える」
と、生まれ変わったところで、かつての記憶はなのだから、実際に生まれ変わったとは言えないだろう。
「なぜ、記憶がないのか?」
ということを考えると、どうしても、わざと記憶を消したとしか思えない。
そこには、神のような存在のものによって、魂は、別の身体で生まれ変わるわけなので、天界の考え方から行くと、
「気が遠くなるほどの長い間、幽界にいて、自分がどこにいるのか分からないくらいになったところでやっと、人間に生まれ変わる」
という理屈であった。
つまり、記憶がないということを、
「自分がどこにいるのか分からなくなるほど、長い時間、肉体から離れていた」
ということで理由付けしようとしているのだ。
もっとも、これは、
「生まれ変わる」
ということを前提に考えてのことであり、そんなに長い間、あの世にいると、この世では、数百年、いや、数千年に一度ということになるのではないだろうか?
だが、そうなると、生まれ変わるまでにあまりにも時間がかかりすぎ、
「循環」
という意味を呈していないことになる。
そこで考えられるのが、
「天界と、この世とでは、想像を絶するほどに時間が経つのが違うのではないか?」
という考え方である。
これは、理論物理学でいうところの。
「相対性理論」
と同じようなもので、
「光速で進行していると、地上よりも時間の進みがはるかに遅くなる」
という考え方である。
あの世では、あっという間に、過ぎてしまうようなことが、この世では、なかなか時間が経たない。
そんな世界が、同じ宇宙のどこかに存在しているとすれば、相対性理論というのも、何となくわかる気がする。
それを、昔の人は化学で証明というわけではなく、一つの宗教的な考えとして持っていたのではないだろうか。
だから、その発想が、昔話で伝わっている、
「浦島太郎」
の話となって、伝承されていると考えると、納得もいくのではないだろうか。
つまり、浦島太郎の話は、相対性理論などという、科学者が考えたような、科学的な話ではなく、宗教に基づいた、
「天界」
という世界のようなものを創造した人たちが、物語性を付けた形で、今の世に伝えてきたのではないだろうか。
そう考えると、いろいろなおとぎ話があるが、それらも、どこかで宗教と結びついていて、形としてはおとぎ話の様相を呈しているが、実際には、キリスト教における、
「聖書」
のようなものだったのかも知れない。
室町時代になって、それを、
「おとぎ草子」
として編纂したのも、宗教がらみだったのかも知れない。
まだ学校などのない時代だったので、この本が、ひょっとすると、教科書のような役割を果たしていたのかも知れない。
それを思うと、地方に伝わっていたものというのが古代からあって、
「ムラからクニ」
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次