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歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ

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 そのことを踏まえ、自然科学というものを考えると、ここから、生命の神秘であったり、化学反応としての、物理学に精通するものも見えてくる。
 それらの知識から、宗教を見てみると、小説の題材としては、実に興味深いものが出てきたということになるであろうか。
 オリンポスの神や、キリスト教における聖書などでは、普通に生活している人には、まったく理解できないような内容の話になっていたりする。例えば、
「神と人間がまぐわう」
 という話は、よくギリシャ神話などにはある。
 神が人間を誘惑して、人間の女が神の子を宿すなどという話である。
 そこで、その神の奥さんが嫉妬して、何か人間界によくないことが起こるなどという話も結構あり、それだけに、
「オリンポスの神々は、人間臭い」
 と言われるのだ。
 さらに気になっているのが、
「神の世界では、何千年、何万年と生きているといわれ、何かの罪を犯せば、その罰として、数千年、その苦しみから逃れられない」
 というような話も聞いたことがあったりした。
 つまり、神は人間の寿命が百年ほどであるにも関わらず、果てしない時間生きているということになるのだろう。
 たとえば、仏教でいうところの弥勒菩薩というのは、
「これから、如来となるために今は修行をしていて、いずれ、人間界に降臨する」
 というのだが、その未来というのが、
「56憶七千万年後」
 だというから、驚きである。
 なぜ、このような発想になるのだろうか?
 ハッキリとしたことは、分からない。根拠もないので、あくまでも想像にしか過ぎないのだが、
「それぞれの世界」
 という考えに由来しているのではないだろうか。
 その世界というのは、
「今の生きている世界から、死後の世界を考えた時の発想」
 として考えられていることであるが、ほとんどの宗教では、
「死んだ人間は、肉体と魂が分離して、魂がそのあとどこに行くのか?」
 ということが問題になる。
 そこで考えられたのが、
「天界」
 という世界である。
 我々の生きている世界は、
「肉体世界」
 と言われるところらしい。
 その下には、暗黒の地獄が広がっていて、そして死んだあとには、最初に、誰もが、幽界というところに行くという。
 そして、その幽界から、上位には、霊界というところがあり、さらにその上に、神界というところがあるという。
 それらの世界は、広さという意味で、上位に行くほど広いところらしいので、逆ピラミッド型をしているのだという。
 地獄というところは、広い深い闇に包まれているので、底がないというイメージから、広いということになっているようだ。
 そして、幽界という世界から、上に行く人間というのは、まず霊界に行くには、生きている時に、ある程度の、
「精神的な修行を積んだ徳を得た人間」
 が行くことができる。
 さらに、神界ともなると、
「神の中のさらに神様」
 という、選ばれた神が存在するところである。
 人間の魂がそこに行くまでには、かなりの徳を積んで、しかも、神に選ばれる必要があるわけだ。今までの人間界に存在した人としては、イエス・キリストであったり、お釈迦様などがその例となるであろう。
 地獄というところは、魂のレベルが低い人間が行くところであるといわれている。魂が思いので、沈んでいくしかないことで、地獄に落ちるのだという。果てしない闇に包まれ、二度と這い上がることのない魂は。考える能力がなくなるほどに永遠に痛めつけられ、最後には、動物に生まれ変わるという。
 幽界に行った人間は、どんなに努力をしても、それ以上に上がることはできない。魂として、果てしない時間を、幽界で過ごすのだが、幽界にとどまると決まった人間には、上位に上がることはどんなに努力してもダメである。つまり、肉体社会というのが、修行の場であり、試される期間は、肉体世界ですでに終わっているということになる。
 だから、幽界にいる人間は、永遠ともいえるほど気が遠くなる時期、つまり、自分が何者なのか分からなくなった時点で、やっと人間として生まれ変わることができるのだという。
 生まれ変わった人間に、前世の記憶がないのは、それだけ長い間、幽界にとどまっていたからだと言えるのではないだろうか。
「人間は、地獄に落ちれば、生まれ変わるのは、動物であり、人間には生まれ変われない。逆に、幽界に行った人間だけが生まれ変わることができて、生まれ変われるのは人間だけである」
 ということだ。
 霊界や神界に行った人間は、そのまま神になったり、菩薩や如来のようなものとなるのだろう。
 そんな人間は、本当に少しだけしかいない。人類の歴史の中で、延べどれだけの人間が存在したのかは分からないが、もし人間が、幽界に行った人間だけの生まれ変わりだとすると、昔はもっともっと、たくさんの人がいたことになる。
 しかし、実際には、昔の方が、人口は少なかった。
 ということは、人間は生まれ変わる以外に、新たに生まれる生命もあるということだろうか。
 それとも、考えられることとして、
「人類は今までに、何度も死滅している」
 ということであろうか?
 聖書の中にある、
「ノアの箱舟伝説」
 や、
「ソドムとゴモラ」
 の伝説のように、神によって、死滅させられたと考えると、世の中は、
「浄化」
 されることで、バランスをとっているといえるのではないだろうか?
 この世で、何度も死滅していると、また種族を増やすところから始めることになる。幽界には、一気にたくさんの人が来たのだから、徐々に生まれ変われば、それは自然なことであろう。
 そうやって考えると。聖書の話というのは、よく考えられているといえるだろう。
 もっとも、この天界の発想があっての、聖書の話なのか、聖書あっての、天界の創造ということになるのか、それは、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
 という禅問答のようである。
 つまり、
「肉体世界での人間には限界があるということであろうか」
 それだけ、人間の顔や身体のパターンには限界があり、同じ顔や肉体を作ることができないという掟のようなものがあるため、この世の人口の上限は決まっているという考えであった。
 そういう意味で、まったく同じ人間が存在するという発想の、ドッペルゲンガーというのが、本当に違う時空の人間で、そこにパラレルワールドが存在しているというのであれば、別の肉体世界も存在しているということであろうか?
 そうなると、幽界から生まれ変われる世界は一つではないともいえる。ただ、パラレルワールドというものが、肉体世界だと仮定した場合のことであって、考え方を変えると、
「パラレルワールドというのは、幽界を垣間見た」
 といえるのではないだろうか。
 見てはいけない幽界を見てしまった。そこにいる、死後の自分を見てしまったと考えると、パラレルワールドと言われている世界は、同じ時間軸に存在している必要はないといえるだろう。
 つまり、
「死んでしまった自分の行き着く先を、垣間見てしまった」
 ということであり、それは、
「ドッペルゲンガーを見たから死ぬ」
 というわけではなく、
「死ぬ運命にある自分の死後の世界を覗いてしまった」