歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
そんなことも分からないで客商売をしている店員を雇っている会社側にも問題があるのではないだろうか。
この場合の問題は、本当は店員が、瞬時に状況判断を行い、客に謝罪し、少なくとも、客をそれ以上怒らせない対応をするのが一番だったのだ。
客としても、店員が手落ちを認め、それなりの対応を考えてくれれば、
「いえ、そこまでしなくてもいいですよ」
と和解の道もあったことだろう。
しかし、いったんこじれてしまうと、相手も怒り狂っているわけだから、少々のことでは、
「火に油を注ぐ」
ということになってしかるべきではないだろうか。
特に今の世の中は、詐欺的な行為が日常茶飯事に行われている。
「個人情報保護法」
などというものも制定され、電話の出方も変わってきた。
昭和の頃までだったら、親や会社から、
「まずは、電話に出れば、自分の名前を名乗りなさい」
と言われていたはずだ。
しかし、今はどうだろう?
「決して自分から名前を名乗ってはいけない」
と言われたり、携帯電話などの、ナンバーディスプレイに、自分の知らない番号や、非通知でかかってきたりすると、
「絶対に出ちゃいけない」
と言われるものだ。
「下手に出てしまうと、こちらの番号が存在しているということを相手に知られてしまう」
ということになり、知られると、いろいろな詐欺まがいの電話がかかってくることになる。
忙しい時などにかかってくると厄介なので、知らない番号、あるいは、登録していないところからかかってきたときは、きっと誰も電話に出ることはないだろう。
そんな時代になってきたのだから、店員もクレーマーを怖がっているのも分かるが、接客ということを忘れて、しかも、自分の保身ばかりに走ってしまうと、相手に見透かされてしまい、怒りを沸騰させてしまうことになり、最終的には店員は自分の首を絞めてしまう。
最初から、
「食材がないと誤ればいいだけだ」
と軽い気持ちでいると、謝り方が形式的になり、心が籠っていないと思われる。
そうなると、相手が怒り狂うのは当たり前のことであろう。
ただ、本当はクレームなどないに越したことはない。今回は、自分からクレーマーを作りだしたわけなので、言い訳は一切通用しないが、このようなことを繰り返していると、自分がミスをしたことで客が起こっているのか、本当に因縁をつけているだけのクレーマーなのかの区別がつかなくなり、それが命取りとなり、接客業ができなくなってしまうだろう。
店員にも、接客に対してのトラウマができたことになり、気の毒だと思ってくれる人もいるかも知れないが、いつも一緒に仕事をしている人からは、同情されることはないはずだ。
ただ、一緒に働いている人としては、
「明日は我が身」
と思い、彼を反面教師として、自分を戒めている人もいるかも知れない。
それができる人はまだまともだが、それすらできずに、ただ同情だけをしている人は、ただの同じ穴のムジナだとしか言えないだろう。
確かに目に見えている状況だけであれば、
「あんなに文句を言わなくてもいいのに。見ているだけで不愉快になってくる」
とクレーマーに対して、不愉快に感じることだろう。
しかし、実際には、定員が招いたことなのだ。事情を知らない連中は、放っておいてもいいだろう。
そんなことを考えていると、前述の、自費出版系の問題にしても、そうなのだが、
「一体、誰が悪者なのだ?」
ということになる。
当然、トラブルが起こったら、そのきっかけがあり、きっかけの近くにその火種があって、そして、意見の違いであったり、思惑通りにいかなかったりした場合にトラブルが起こるのだ。
きっかけがそのまま火種になる場合もあれば、きっかけに対して、そこまで怒る必要もないはずなのに、怒ってしまったことで、余計なトラブルを引き起こすことになりかねない。
そういう意味で、よほど最初から、双方を、
「トラブルが起こるはずだ」
と思い、客観的に見つめていない限り、その状態を、
「ジャスティスすること」
は不可能であろう。
ここに、お弁当屋さんのトラブルを敢えて書いたが、正直、
「そんなに表に出すような大したトラブルではない」
と言われるかも知れないが、意外とこういう細かいトラブルの方が、実際には分かりにくいものであり、本来なら、こういう場合はどちらが悪いというようなマニュアルのようなものがあるのだろうが、えてして、こういう小さいものは、マニュアルに沿わない場合があったりするものだ。
それを考えると、
「善悪の問題」
というのは、一筋縄ではいかない。
そう思うと、
「勧善懲悪」
というものを、日本人は結構好きであるが、その考えがどこかに落とし穴として、潜んでいるのではないだろうか。
輪廻転生
最近は、そんな、
「善悪について」
の小説が多かったりする、草薙だったが、最近は、善悪を考えていると、どこか宗教的なことを研究するようになってきた。
そして、その宗教的な考えと、それまで自分で研究してきた、理論物理学や、天文学的なことに共通点が多いということに気づいてきた。
急に、
「たとえば?」
と言われると、ひと言で言いにくいこともあるが、ふと思いつくのである。
最近、気になっているのが、輪廻転生というものと、
「生物地球科学的循環」
と言われるものであった。
何やら、堅苦しい言葉ではあるが、簡単に言えば、人間や動物の廃棄物であったり、あるいは動物の死体などは、肥料になって、植物の成長に欠かせないものになる。そして、その植物を動物は食して生き延びる。
要するにそういう循環を、
「生物地球科学的循環」
というのだ。
他にうまくできていると考えられるのは、植物が行う、
「光合成」
と呼ばれるものではないだろうか。
人間や動物は、呼吸をしないと生きていけないので、
「酸素を摂って、二酸化炭素を放出する」
というのが、呼吸のメカニズムであるが、酸素ばかりを摂って、二酸化炭素を放出していれば、
「いずれ、酸素がなくなり、二酸化炭素ばかりになるではないか?」
ということが考えられるが、実際にはそんなことにはならない。
空気中の酸素や二酸化炭素の割合は、誤差はあるかも知れないが、ずっと変わることはなかったのだ。
なぜなら、そこに植物が行う光合成というものが出てくるのだ。
「光合成というのは、植物が、二酸化炭素を摂って、酸素を吐き出す」
というものである。
だから、動物の呼吸とは反対のものなので、自然の摂理がうまくいっているといってもいいだろう。
これも、一種も
「循環」
という考え方で、酸素がなくなって、二酸化炭素ばかりにならない一つの要因なのだろう。
もちろん、それですべてが平衡感覚がとれているというわけではないだろうから、呼吸と光合成によって、酸素と二酸化炭素の量がいつも一定だということではないだろう。
少しこの説は強引かも知れないが、
「生物の循環」
という考え方にのっとって考えれば、呼吸と光合成は、実にうまくできているということの説明には十分ではないだろうか。
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次