歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
受賞しても、次回作への期待というプレッシャーに押しつぶされて、次回作が書けずに、受賞作だけで終わる作家が山ほどいる。そこで諦めることができるのなら、それでいいのだろうが、そうもいかないのが、小説家を目指す人たちなのだ。
そんな人たちは、一応、作品を書いては持ち込んで見てもらったり、アイデアを企画として提出し、何とか、再起しようと頑張るだろう。しかも、そんな人たちも山ほどいるのだ。
「一日に何人がデビューするというのか?」
ということであり、一日に何冊新刊として出るかということを考えれば、本屋が減ってきている昨今、砂漠で金を探すがごとくのような出版の可能性に辿り着いたとしても、誰が買うというのかである。
「本屋の並べるのは、スタートライン。売れなければ、並べた分、すべてが返品だ」
ということだ。
マンガだって、ものすごい数が出版されている。その数の多さは、ネットカフェにいけば分かるだろう。あれだけたくさんの本棚に、漏れなくマンガが並んでいて、同じ本は二冊とあるわけではない。それを思えば、マンガも出版はされても、本屋に並んでいるのは一部だ。しかも、時間が経てば、ベストセラーでもない限り、すぐに他の本に取って変わられる。ベストセラーであっても、どれくらいの間。本屋に並んでいるというのか、半年? 数か月、下手をすればひと月で終わるものもあるのではないか?
特に今は、ネット書籍が主となり、本屋自体が少なくなっている。ネット書籍ともなれば、話題に乗らなければ、見ようとすら思わないだろう。それを思うと、出版界が氷河期で絶滅危惧業界だということも頷けるというものだ。
小説は、ミステリーから、SF、ホラー、さらには恋愛ものへとチャレンジしていったが、なかなか納得のいく小説は書けなかった。
小説を書くには、自分の中で納得のいくものがいいのだろうが、そんな小説を簡単に書くことができるわけもなく、なるべくたくさん書ければいいという感覚で書いていた。
最初は軽い気持ちで、
「書けたらいいよな」
と、趣味のつもりで書こうと思った。
小説を書くのが難しいのは分かっていたが、趣味でなら何とかなるだろうと思っていた。別に小説家になりたいなどと思っていたわけでもない。自分の将来は、学者のイメージしか頭の中に浮かばなかったからだ、
小説を書くのも学者になるうえでの、鍛錬のようなものだと思っていた。論文を書かなければいけないので、文章力もつけなければいけないだろうし、発想力も身につけなければいけないと思ったからだった。
だが、実際に書いてみると、なかなか筆が進まない。考えれば考えるほど、先に進んでくれないのだ。
元々、いきなり書き始める方で、アイデアが一つでもあれば、それを目指して書くという程度しか思っていなかった。
プロットなどという言葉も知らなかったし、最初から、
「小説の書き方」
などという、本屋に売られているハウツー本を読もうというつもりはなかった。
「読むとすれば、まずは書けるようになってからかな?」
と思っていた。
なぜそう思ったのかは、最初は分からなかったが、書けるようになってからは、
「答え合わせ」
に近いイメージなので、実際に書けるようになって見てみると、
「やっぱり答え合わせだ」
と思いながら読んでみた。
書けるようになるまでで自分の目指していたものと、さほど大きな差はなかった。ただ、この差というのも、きっと個人差があるだろう。草薙にとってのこの差は、自分の中の誤差の範囲だったのだ。
論文を書いていると、いつも考えているのは、
「誤差の範囲」
であった。
論文というと、自分が考えていることと、実際に研究で得られた結果とを、どこまで近づけられるかということが大切であった。誤差の範囲とは言えないことでも、何とか文章でごまかせる部分もあり、一種のニュートラル部分といってもいいだろう。
ニュートラル部分があることで、論文に厚みが増し、言い訳が次第に学説に代わってくる。だから、論文は長くなるものなのだと、草薙は考えた。
しかし、小説の場合は、書き始めはそんなニュートラルな部分を描くのが難しかった。論文よりもはるかにニュートラルな部分が多いと思われるのが小説で、いきなり結論を導き出してしまう書き方もあるのだろうが、その分、そのあとのニュートラルな部分で、いかに、内容に膨らみを持たせるかというところが難しいのだった。
最後の最後まで結論を見せない小説が、基本的には多いと思っている草薙は、
「俺は意外と、オーソドックスな書き方しかできないのかも知れないなあ」
と思うようになった。
ただ、いつも論文を書いているので、論文が小説の作法の中でも、オーソドックスなものだと思っていたことで、
「意外と」
という言葉は適切ではないような気がしてきた。
小説というものは、
「最初に結論をいうのではなく、徐々に結論に結びつけていくのが、オーソドックスなものだ」
と思っていたはずなのに、論文では、最初に結論めいたことを書いて、そこから結論に向けての証明を書いていく手法がオーソドックスだと思っていた。
それは、自分の中での矛盾のはずなのに、小説を書いていて、
「論文を書いている時の自分とは違う自分がいる」
ということから、オーソドックスという意味の感覚を勘違いしていたのかも知れない。
小説を書いている時は、とにかく、その世界に入り込んでしまうことが必要だった。
なぜなら、考えてしまうと、筆が進まなくなるからで、小説の世界に入り込んでしまうと、書きながら、先を見据えることができるので、筆が休むことはないのだ。筆が休むという言い方をしたが、小説はパソコンで書くので、手書きとは違う。最初は、
「パソコンなんかで書けるのか?」
と疑問だったが、実際に書いてみると、本当に先を見据えて書けるようになっていたのだ。
「まるで、一分くらい先に、自分がいて、それを見ている自分が文章を連ねていくだけのようだ」
と思うと、
「これが集中力のたまものだ」
と感じてきた。
集中していると、ものすごく早く書けているような気がする。あっという間に、自分が書こうと思っていたところまで書けたことで、
「俺って天才?」
とまで、最初はうぬぼれてしまったが、実際は、
「二十分くらいしか経っていないような気がしたが、実際には一時間以上も経っていたんだ」
と感じた。
つまりは、一時間なら普通くらいの量しか書いていないのに、それを二十分で書けたと思っているのだから、三倍のスピードで書けたと思う。ただ、この勘違いは嫌な気持ちの勘違いではない。それだけ、時間の感覚がマヒするほど、集中していたということになるのだと思ったからだ。
しかも、時間を実際よりも短く感じるのだから、書いていて、やりがいを感じることができる集中度なのだろう。
そう思うようになると、それまでは、小説を最後まで書けなかった自分が、曲がりなりにも書けるようになった。
そもそも、最後まで書けなかった一番の理由は、
「集中することができていなかったからだ」
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次