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必要悪な死神

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 苛められている方を見てしまうと、黙っている自分まで悪者に感じてしまうからだ。そして、自分も一緒に苛めをしているような感覚になることで、普段から感じている世の中の理不尽さを、この時とばかりに戒めているような思いに至るのだった。
 塚原も、
「子供だから仕方がない」
 と言って済ませられることではないというのは、中学生になってから知った。
 たぶん、思春期になった時、女の子が気になるようになってくると、気持ちが少しずつ分かってきたのかも知れない。
 自分を苛めていた子は、一年くらいすると、もう苛めてこなくなった。まるで自然消滅したかのように、ごく自然に、苛めがなくなっていった。だから、塚原本人も、
「よかった、苛められなくなった」
 という気持ちはなかった。
 苛められなくなったことに安堵がなかっただけに、逆に自分の正当性を感じることができず、気持ち悪いままに感情が落ち着いたことは、味気ない思いになってしまったのだ。
 まわりの連中はもっとひどかったかも知れない。
「なんで、苛めをしなくなったんだよ。これじゃあ、俺たちまで悪者じゃないか?」
 と思っていたことだろう。
 しかし、悪者であることには違いない。苛めっ子の気持ちになっているという理屈で、普段の自分たちが理不尽に感じていることへの、憂さを晴らそうとしていたのだから、そんな人の気持ちに便乗したような偽善者のような気持ちに対して、誰が気を遣ってやらなければいけないかということである。
 苛めている方としても、自分で気持ちを収めることができなくなってしまっていたのだから、誰かまわりの人が注意をしてくれれば、自分からやめることができると思っていたのだ。
 それができないから、結局苛めぬくしかなくなって、最後には自然消滅というような、後味の悪さとなってしまったのだった。
 最終的には、苛められていた人間が、一番後味が悪いものではなかったようだ。
 苛めている方も、やめたいのにやめることができず、最後まで行ってしまったという罪悪感。まわりの人は、そんな罪悪感を知らず、自分たちが黙っていることを最初は、苛められているやつにぶつけるつもりで、苛めている男ばかりを見ていたが、実際には、苛められているやつの姿が見えなくなってしまい、
「今感じているこの憤りは、すべて、目の前に見えている苛めっ子にしか向けられないのだ」
 という気持ちになるのだった。
 中途半端な気持ちにさせられたことへの恨みは、いじめっ子に向けられる。どうにも、最初とは違ってしまったことを理不尽さと矛盾に感じてはいるが、最終的に、
「自分ではどうすることもできなかった」
 という思いが、これからも自分の中で繰り返させると思うことで、これほどの後ろめたさはないと思い。後味の悪さは、誰よりも彼らの中にあったのだ。
 しかも、
「俺たちが何をしたっていうんだ?」
 という思いがある。
「彼らは何もしたわけではない。逆に何もしていないから、怒りのぶつけ先を見失ったのだ。本来なら苛められていたやつに対して怒りをぶつけるはずなのに、俺が見失ってしまったばっかりに、怒りの矛先が見えなくなっちまった」
 と、思うことで、結局、自己嫌悪に陥るしかなくなったのだった。
 他の、黙っていた連中はどうなのだろう?
 自然消滅した苛めに対して、きっと、
「よかった」
 と思っていることだろう。
 彼らは彼らで黙って見過ごしていたことに罪悪感があった。なぜなら、黙って見過ごすことへの正義はどこにもなく、正義がないのであれば、黙って見過ごすだけの理由がなければいけないのに、それも見つからない。
 完全に中途半端な気持ちになってしまったことが、実は、
「苛めがなくならない」
 という社会問題の一番の原因なのではないかと、大人になってから、塚原は考えた。
 ちなみに、ここでいう、
「大人」
 というのは、すでに大学も卒業してからのことだったので、どこで、大人と子供を切り分けたとしても、大人に入ってしまう年齢だった。
 その頃になると、本当に好きになれる人が現れて、大学時代まで数人の女の子を付き合った経験はあったが、その頃になって大学時代を思い起こすと、
「まるでままごとのようだったな」
 と思うほどであったのは、
「本当に好きだったといえるのだろうか?」
 と感じたかあらであって、人を好きになるということが、どういうことなのか、そればかりを考えていた時期だったのだ。
 一緒にいるだけで楽しかったといってもよかったが、それだと、小学生の時に気になっていたあの子を思い出させる。そうなると、
「もし、髪を切ってきたりして、自分の好きなタイプとは違った雰囲気になったとすれば、今までどうり、好きでいられるだろうか?」
 という思いに至ってしまうであろう。
 それを思うと、大人になったつもりでいたが、
「また子供の頃と同じことを繰り返してしまうのであれば、俺はずっとこのまま大人になんかなれないのではないか?」
 と感じるのであった。
 その頃は、
「ピーターパン症候群」
 というのが流行っていて、
「大人になりたくないという意識、あるいは、大人になることを故意に拒否している感覚になること」
 という思いのことであった。
「ピーターパン症候群」
 というのは、大人になることで、ずるがしこくなったり、本来であれば守らなければならない子供であっても、自分たちの保身のために、子供を犠牲にしてでも、という考えを持った大人が増えてきたのだろう。
「それって、まるで、苛めを見て見ぬふりしていた連中と同じではないか?」
 と思った。
 自分が苛められている頃、苛めていた人間を意識しないわけにはいかないが、それ以上に、苛めを傍観している連中ばかりが気になっていた。そのおかげで、連中の中にもいくつかの種類がいることが分かってきた。
 本当にただ、黙っている、自分だけがよければいいと考えるやつ。
「苛められているやつには苛められるだけの理由がある」
 ということで、苛めを容認するつもりで傍観しているやつ。
 さらには、自分が他のことで、理不尽に感じていることがあり、その感覚に正当性を持たせるため、強引に苛めを傍観する自分との間に関連性を結びつけることで、自分の憂さを晴らしているやつもいた。
 苛められている側から見れば、そのどれもが、嫌なものであるのは間違いない。だから、
「もっと他に傍観者の中に、違う理由の人はいないのだろうか?」
 と思って探してみたが、そんな人などいるわけもなかった。
 一人でも、納得がいく傍観者がいたら、もう少し違ったのだろうが、大人になってからの塚原は、
「いじめ問題は、絶対になくならない」
 と思うようになっていた。
 もし、なくなるとするならば、大前提として、傍観者がいなくなることだと思ったが、そんなことができるわけもない。
 つまり、矛盾が正当化されるようなことでもない限り、苛めというのはなくならないものなのだと思うようになったのだ。
作品名:必要悪な死神 作家名:森本晃次