小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

必要悪な死神

INDEX|3ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 照れ隠しからか、自分を取り繕うとして、言い訳っぽくなってしまう人もいるだろうし、後ろばかりを気にして話をしているので、相手の方が気を遣って、どちらが、最初に気を遣ったのかが分からなくなってしまいそうで、お互いの距離が微妙になってくることだってあるだろう。
 そんなことを考えていると、
「足を攣るのが、寝ている時は、眠りに就こうとしている、誰もいないところだというのは、本当であれば、都合のいいことなのかも知れない」
 と、感じるのだった。
 それなのに、
「苛められているのを、誰も助けてくれない」
 ということにこだわるのは、どこか矛盾しているような気がする。
 逆にそれだけ、よく言われているような、
「苛めに参加していない連中が黙っているのは、実は苛めをしているのと同じで、一番卑怯なのではないか?」
 ということであった。
 そういう関係は、えてして苛めの世界だけではなく、他の世界でもあることなのではないだろうか。しかし、それを感じないのは、
「苛めに対してのイメージが強い」
 からなのか、それとも、
「他のイメージがあまりにも低すぎる」
 ということからなのか、よく分からないでいた。
 なぜなら、苛めに対してのイメージが強いのであれば、もう少し苛めに対しての問題が、違った形で解決に近づいてもいいはずなのに、相変わらずの、八方ふさがりにしか見えないからだった。
 苛めというものが、
「ひょっとすると、必要悪なのではないか?」
 と言っている人がいるというが、苛めがあることで、他に何か大きな問題になりそうなことが起こらずに済んでいるのだとすると、苛めに遭っている人には申し訳ないが、
「大きな問題のためには、多少の犠牲は仕方がない」
 などという考えがあったとすれば、それこそが、社会的に問題なのではないかと思うのだが、違うだろうか?
 それこそ、まるで民主主義のような考えであり、
「民主主義の原則は、多数決だ」
 と言われるが、苛めている方が多数であれば、苛められている人間は少数派ということで、
「苛められている方が悪なのだ」
 ということになり、それが本当に民主主義の理念だとすると、
「なるほど、貧富の差などの不公平が出てきても当たり前だ」
 といえるだろう。
 そういう意味で、かつて、世界的な伝染病が流行った時、諸外国などでは、ロックダウンなどという言葉のいわゆる、
「都市閉鎖」
 を行った。
 自由を制限し、違反すれば罰則があるというものだが、そのために、国家が見返りとして、保証は十分に与えていた。
 しかし、日本の場合は、憲法の、
「基本的人権の尊重」
 と、
「平和主義」
 という問題から、ロックダウンや戒厳令のような、法律が個人の権利を制限することはできないのだが、
「お願い」
 という形で、時短営業や、最悪な場合は、一時期の閉店を命じた。
 その時に、政府が出した協力金というものが、実にドケチなものであり、しかも、
「スピードが求められる」
 ということで、実に不公平な出し方をした。
 一部の業界にだけ支援金を出したり、普段儲かっていない店と、普段から売り上げがあるが、その分支出という出費も大きいというお店と、ほぼ同額の支援金を出しているのだから、不平不満が出ても当然というものだ。
「だから、民主主義だと、貧富の差は埋まらないんだ」
 ということで、考えられた社会主義だったが、これも結局、
「ソ連の崩壊」
 という事実があって、結局、民主主義国家が多くなったのだ。
 ただ、同じ民主主義といっても、ピンからキリまであり、日本における民主主義というのが、形だけのものでしかないように思えてならないのだった。
 それを思うと、
「こんな形ばかりの民主主義の中で、苛めの問題が解決できるわけはない。結局、民主主義の行きつく先は、原点である多数決でしかないのだから」
 というようなことを話している専門家がいるが、
「確かにそうだ」
 としか思えない。
「日本という国が、いや、世界全体で理想とする民主主義というのをどこに求めていけばいいというのだろうか?」
 その答えは、とてもではないが、誰にも分かるはずはないだろう。
 出ているくらいなら、もっと早く、理想の国家が出来上がってもいいはずだからであった。
 そんな苛められていた塚原だったが、
「俺がどうして苛められなければいけなかったのか?」
 ということが分かったのは、中学に入ってからのことだった。
 自分を苛めていたのは、元々友達だと思っていたやつが中心にいて、その取り巻きが苛めてきたのだったが、ある意味、皆友達だった連中だといってもいいかも知れない。
 あれは、四年生の頃だっただろうか、実は三年生の頃から気になっている女の子がいて、そのうちに話をしてみたいと思うような子だったのだ。
 もちろん、小学三年生というと、
「異性として意識していた」
 というわけではなかった。
 思春期は、中学生になってから、自分でも意識できるくらいに、意識が変わった瞬間が確かにあったのだった。
 その子と、仲良くなれたのは、何がきっかけだったのかということを覚えていないのだから、それだけ自然と話ができるようになっていたという証拠だったに違いない。
 だが、しょせんは、お互いに小学生であり、異性として意識していないので、彼女からすれば、母性本能のようなものだったのかも知れない。
 そこか、相手が自分を上から見ているようには感じていた。これが相手が男だったら、少しムッとした感覚になったのかも知れないが、女の子だったことで、それも嫌ではなかった。
 母親から、上から目線で見られるのは、嫌だったのだが、その理由は、
「いつまでも、子供扱いにするんじゃない」
 という思いからだったのだが、まわりの同級生の女の子であれば、子供扱いにされたとしても、それまでずっと対等だと思っていながら、話もできなかったことを思えば、逆に、上から見てくれることで、距離が近づいたのだと思うと、嫌ではなかったのである。
「早く大人になりたい」
 という思いがあったのは事実で、ただ、それが背伸びでしかないというのも分かっていた。
 背伸びが悪いことだとは思わなかったので、気になる女の子から、背伸びして見られるのは嫌じゃなかったという理由になるであろう。
 小学生の頃というと、女の子の方が背が高く、
「成長は一般的に女の子の方が早い」
 と言われるが、まさにその通りだったのだ。
 ただ、小学四年生というと、すでに初潮が始まる子もいるというくらいなので、
「昨日までと、まったく雰囲気が変わった」
 と感じる子もいたりした。
 そんな子に対しては、逆に上から見られるのは嫌だった。実際に上になった人から、あからさまに上から見られると、嫌な気がするのは、
「それだけ自分の性格が、天の邪鬼だからではないか?」
 と感じるのだった。
 だが、彼女にそんなことを一切感じなかったのは、
「普段から、いつも変わらぬ雰囲気でいてくれる」
 ということが嬉しかったからに違いない。
 その思いが、好きかどうかという感覚も分からないままに、
「一緒にいるだけで嬉しく感じる相手だ」
 と思うことが嬉しかったのだ。
作品名:必要悪な死神 作家名:森本晃次