必要悪な死神
になっていて、親がいくら言っても、部屋から出てこないという場合が多い。
一つのクラスに一人だけというレベルではなく、何人もいたりする学級があるというから厄介だ。
親も。引きこもりの原因が苛めにあるということは認識しているので、学校に当然相談に行くだろう。
すると、先生の方も、なるべく、問題を家庭に引責しようとする。たぶん、数が多すぎて、一人では捌ききれないという感覚があるからではないだろうか。
捌くなどというと、嫌な表現になるが、先生としても、形式的にならざるおえない感覚で、一つ一つを解決していくしかないという思いから、
「捌く」
という言い方になってしまうに違いない。
学校で、先生と面談をしようと思っても、どうやら、学校側は、最初から身構えているようである。
たぶん、苛められている生徒の親が学校に来るというのは、当たり前になっているようで、先生が親の立場でも、きっと学校に怒鳴り込んでいるに違いないと思っていることだろう。
だから、先生も、
「またか」
ということで身構えてしまう。
学校側に、苛めを相談に来る保護者に対して、どのような対応をすべきかというマニュアルのようなものがあるのかも知れない。もっと社会問題が大きくなってくると、学校だけではなく、教育委員会、もっと大きくなれば、文部省(今の文部科学省)の方から、マニュアルとして、全部の学校に配布されていたかも知れない。
だが、まだそこまで大きな問題になる前だったこともあって、マニュアルが存在するとすれば、それは、学校が作ったものでしかないのではないかと思うのだった。
両親が学校に行った時は、そこまで、
「怒鳴り込んで」
というようなことではなく、どちらかというと、
「藁をも掴む気持ち」
とでもいえばいいのか、
「親としては、子供が何を考えているのか分からない。だから、まずは子供の教育の専門家である先生に聞くしかない。しかも、原因が学校にあるのであれば、学校側から、家庭内での対応の仕方をご伝授いただきたい」
というような気持ちだったに違いない。
しかし、実際に話をしてみると、完全に学校側では、構えてしまっていて、防御一方にしか見えず、知らない人が見れば、
「父兄が、学校に因縁か何かをつけに行ったので、学校側が身構えている」
という構図にしか見えなかったりする。
家族としてはたまったものではない。そんなつもりもなく、まったく何も分からない状態なので、少しは学校に聞いてみようとするのを、まるで親が引き籠りを学校のせいにしているとでも言わんばかりの態度に、身構えているとみられているのだ。
きっとまわりもそう感じていることだろう。親とすれば、まわりから変な目で見られているように感じてしまい。普通なら、逆ギレするか、それとも、その圧力に屈するような形で、
「学校なんて当てにならない」
と、決定的な溝を、家族と学校の間に作ってしまうかというのが問題となるのだ。
学校側は、できれば、家族と連絡というホットラインを壊したくないのだろうが、いきなり怒鳴り込んでこられたと思い込んでしまうと、対応のしようがない。
「先生だって、人間なんだ」
とまるで、どこかのカレンダーの標語を思い起こさせる言葉であるが、家庭は、先生をそのような目では見ていないことが、両者の間の決定的な結界となってしまっているのだろう。
そんな学校に両親揃ってやってきた。実際に、父親も母親も、
「一人だと自分が怖い」
と思っているほどに、いわゆる、
「瞬間湯沸かし器」
である。
こんな言葉、さすがに昔にしか使わないだろうが、実際に、両親ともに思っていたのだ。
要するに、相手から言われた言葉に対して、一瞬にして怒りがこみあげてきて、冷静さを失ってしまうということである。普段は少々のことでも、怒りを抑えられるのだが、一言で変わってしまうというのは、ある意味悪いことではないと思う。
なぜなら、その一言というのが、自分に対して言われたことではなく、他人、子供に対しての誹謗中傷などであれば、黙っている親はいないはずだ。怒りがこみあげてくるのは誰もが同じなのだろうが、一旦怒ってしまうと、そこから先、自分でもどうすることもできず、怒りに対しての感覚がマヒしてくると、何を言い出すか分からないくらいになってしまう。
特に感覚がなくなってくると、相手が言われて一番辛いのは何かということに敏感になり、一気にまくしたてるようになると、その時点で収拾がつかなくなる。
話し合いなどできるはずもなく。こみあげてくる怒りは、爆発するまで収まることはない。
なぜなら、収める気持ちが本人はなく、怒り狂ってしまうと、まわりのことへの気遣いすらなくなり、誰のために怒ったのかということすら分からなくなるというほど、豹変してしまうことになる。
「一番怒らせてはいけない人を怒らせてしまった」
と、よく言われるが、両親が単独で怒りを感じてしまうと、どうしようもなくなる。
そういう意味では、もう一人抑えとしての意味を込めて、両親二人が揃っている方がいいというものだ。
もちろん、二人が一緒になって、怒り狂うこともあるだろう。そうなってしまうと、本当に収集がつかなくなるのだが、塚原は、
「それならそれで仕方がない」
と思っている。
二人いて、どちらも収拾がつかなくなるほどに怒らせたのであれば、怒らせた方が悪いのだ。そういう意味で、怒らせた人間には、それなりに、責任を取ってもらう必要がある。
それだけひどい言葉をぶつけたのだろう。誰であっても、怒り狂うような言葉を吐いたのであれば、本当はいけないのだろうが、殴られようがどうしようが、本人の責任だ。
しかも、それが学校の先生というのであれば、論外である。
少なくとも、教育に関しての仕事に従事していて、それで生活をしているのだから、相談にきた親を怒らせるなど、言語道断だといえるだろう。
確かに、先生たちにもストレスが大いにたまる仕事だというのは分かっている。変に生徒への教育で、
「鉄拳制裁」
などをすると、PTAや教育委員会から責められ、
「暴力教師」
というレッテルを貼られてしまう。
そんなことはあってはならないとは思いながらも。理不尽な生徒たちに対して、教育者としてのやり方にかなりの制限があるのだから、まるで、機関銃を持って迫ってくる相手に、竹槍で向かっていくようなものではないか。
今の日本は、平和憲法であり、専守防衛しか認められていない自衛隊なので、自分の部隊の人間が攻撃されているのに、反撃ができないというのと似ているではないか。
それを学校で先生が教えてくれた。
「なんで、そんなに興奮しているんだ?」
と思うほどに、声に力が入っていて、抑揚もすごいものだった。
きっとそれだけ、いつも感じていることと、自衛隊の話をしている自分とを重ねてみているうちに、怒りが自然とこみあげてきたのだろう。
それから、三十年近くのちになって、
「コンプライアンス」
などと言って、ほとんどの人間に、昭和の教師や、自衛隊員の憤りに似た気持ちをやっと感じさせるようになって、