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必要悪な死神

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 それまでは、音はしていたはずなのに、時を刻む音が聞こえてきたという意識はなかった。
 今のように、デジタルばかりで、たまにアナログを置いた時に意識するのとはわけが違ったのだ。
 今でも、もしアナログ時計があったとしても、少しだけは針の音が気になるかも知れないが、すぐに音を気にすることもないはずだと感じるのだった。
 童謡などで、古時計などという歌があるが、当時の古時計というと、柱時計であり、箱型の時計の下半分くらいを振り子が占領しているというような大きいなもので、それくらい大きな時計だと、夜のとばりの降りた時間帯は、かなりの音が響いているに違いない。
 少し小さめの目覚まし時計だったので、気が付けば、眠りに就いていた。そういえば、どこかの観光地に行った時のことだったが、ガイドさんが面白い話をしていた。
「ここの水は不老長寿の水ということで有名で、ここに三つの飲み口があります。これを一杯ずつ飲んでいくのですが、最初の一杯目を飲むと、一日長く生きられます。二杯目を飲むと、一年長く生きられます。三杯飲むと、死ぬまで生きられます」
 と言っていた。
 思わず、まわりから笑い声が聞こえたが、この話で、三杯目を聞いたところで初めて皆笑い声をあげたのだが、実はこの話のすべてが、矛盾したお話なのである。最後の一言が印象的だったので、その前の二つには誰も気づかない。これも、一種のブービートラップのようなものであるだろう。
 三杯目の、
「死ぬまで生きられる」
 という言葉、これは誰が聞いても当たり前のことを言っているのだ。
 だから、笑い声が出てきたのだが、逆に、一杯目、二杯目の言葉も、一見、おかしくないように聞こえるが、実は間接的な矛盾をはらんでいるのだ。
「一日、あるいは、一年長く生きられるといって、果たして、その証明は誰がしてくれるというのか?」
 である。
 つまり、人間の寿命を誰も知らないのだから、一日、あるいは、一年長く生きられるといっても、証明できるのは、
「本当に死んだ時から、逆算して、一日前、あるいは一年前が寿命だった」
 ということだけである。
 そもそも、この言い伝えが間違っていないという証明があってこその話なので、それを証明しようとするのに、証明するはずのことが前提だというのは、まるで禅問答のようであり、まさしく、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という理論と同じ発想ではないだろうか。
 どうして、このような話を思い出したのかというと、夜中に一度目を覚ましたのだが、その時、何か夢を見たという意識はあったが、どんな夢だったのか、思い出せなかったのだ。だが、見た夢を思い出せないというのは、少なくとも怖い夢だったわけではなかったのだろう。その夢に結びつく発想として、この、
「三杯の水」
 という発想を思ったのだった。
「あれだけ眠れないと思っていたのに、よく眠れたものだな」
 と感じた。
 しかも、
「今なら、二度寝だってできそうだ」
 と思った。
 あわやくば、さっきの夢をもう一度見れるかも知れないとも感じたが、今まで、同じ夢を続けてみたことは一度もなかったはずだ。
 特に、
「続きを見たいと思うことで、すでに見ることができないと証明されたかのように思えて、どうせ見ることはできないだろう」
 と思えてならなかった。
 ただ、今回は、もう一度夢を見たいと思うからか、普段はなかなかできない二度寝ができるような気がした。実際にそのまま眠りに就いてしまったようで、気が付けば、朝になっていた。
「ああ、よく寝たな」
 と思ったが、その時頭をかすめたのが、さっき目覚めた時に感じた、
「三杯の水」
 の話だった。
 ということは、先ほどの夢の続きを見ることができたのかな?
 と感じたが、どうもそうではないようだった。
 しかも、先ほど感じたはずなのに、この思いは、今初めて感じたという思いが強かったのだ。
 二度目に見たのだという意識がある中で、矛盾しているという感覚はあるのだが、矛盾しているように思えなかったのは、どういうことなのかということを考えた時、一つの考えが頭に浮かんだ。
「さっき起きたと思ったのは、実は錯覚であり、実際には、あれも夢の中ではなかったのか?」
 ということであった。
 つまり、眠っていたのは、一度だけで、本当は一度目を覚まして、
「三杯の水」
 の話を思い出したのではないかということである。
「目を覚まして、もう一度眠ってしまった」
 という夢を見ていたということであり、まるで笑い話で聞いたことがある、
「不眠症だと思っていたが、眠れないという夢を見ていた」
 というのと同じレベルではないかと思い、それを考えた時、身体に脱力感を感じたのだ。
 子供だと、えてしてそういうこともあるのかも知れないと感じたが、それも思春期前だということが影響しているのかも知れないと感じた。
 確かに、思春期前というと、いろいろそれまでに感じたことのなかった感情が浮かびあ上がってきたりする。今回の夢もそうなのかも知れない。
 その時は、頭の中からすっかり、友達がいなくなっていたことを忘れていた。この後思い出すことになって、我に返ると、
「友達がいなくなって、世間では大騒ぎになっていることだろうな」
 と、思い、こんな時だけ、子供であってよかったと思っている。
 大人だったら、自分の意志に関係なく、いやがうえにも、皆と一緒になって探さなければいけないだろう。
 探すことに違和感はないのだが、
「皆と同じように」
 というところが引っ掛かる。
 それさえなければ、人を探すということも、億劫に感じることはないと思うのだった。
「布団から出るのが怖い」
 と思った。
 本当は布団から出るのが怖いわけではなく、人と会うのが怖いのだ。
 きっと、友達が行方不明なのを聞いて、それを自分に確かめてくるだろう。もし、聞かれた時、どう答えればいいのか? 想像するのも怖いくせに、想像しないではいられなかった。
「あなた、どうして機能、お友達がいなくなったことを話さなかったの?」
 と聞かれるに違いない。
「僕らに黙って、家に帰ったかも知れないと思って」
 としか答えられないだろう。
 しかし、
「一体、昨日はどんな遊びをしていたの?」
 と聞かれて、
「かくれんぼ」
 と、正直に答えたとすれば、親はどう思うだろう?
「かくれんぼをしていて、最後に出てこなかったら、おかしいと思わない? もし、その時にちゃんと探していれば……」
 と言われたとして、その先の言葉を想像するのが怖かった。
 親から叱られるのが怖いというよりも、その先の言葉を聞くのが怖いのだ。
 もし、親から、
「そうね。しょうがないわね。子供の遊びで、その中で一人いなくなるなんてこと、結構あることだからね」
 などと言われたらどうだろう?
「そんなの結構あるようなことじゃない」
 と、自分の心が叫ぶだろう。
 だが、親が子供を庇ってくれているのが分かるので、それ以上、言及することはできない。いや、そんな資格が見捨ててしまった自分たちにあるというのか、考えれば考えるほど、深みに嵌っていくだけだった。
作品名:必要悪な死神 作家名:森本晃次