必要悪な死神
だったら、女たらしになっていただろう。
いや、もっと言えば、
「モテる男というのは、皆女たらしなんだ」
と考えるようになった。
その感覚に陥ったのは、自分が思春期に近づいたからで、ハッキリと、異性を意識できるところまで来ているわけではないが、それまでと異性に対して違う感情を持つようになってきた。
それは、まず自分が女性を好きかどうかという問題ではなかった。一番最初に感じたのは、厳密には違っているのだと思うが、一種の、
「嫉妬心」
なのではないだろうか。
というのは、同級生が、あからさまに女の子とイチャイチャしているのを見ると、何かムズムズするものを感じる。
二人の笑顔が対照的に見えるのだが、男の方の笑顔は、これ以上ないというほどの厭らしさが感じられ、
「胸くそ悪い」
と言ってもいい感じなのに、かたや相手の女性のその笑顔は、まるで、
「天使の微笑み」
に見えるのだった。
今まで知っている女の子の顔ではない。以前からその子の顔を知っているとして。その表情は見ていると天使に感じるのだが、その笑顔が向けられているのは、自分ではない別の男だ。そう思うと、何ともやるせない気持ちになってくる。
「こんな厭らしい顔をするやつに、どうしてこんな天使の笑顔ができるんだ?」
という思いから、まるで自分の彼女を取られたかのような錯覚に陥ったのだ。
ただ、
「果たして、彼女にあんな笑顔をさせることが、この俺にできるんだろうか?」
と思うと、まったくと言って自身がない。
しかし、それをいとも簡単にさせてしまう、あの厭らしい笑顔を見ていると、恋愛というものが、汚らしいものに思えてきた。
思春期になってくると、性的好奇心が強くなってくるのは当たり前のことで、まわりの同級生の男の子は、そんな思春期を楽しんでいるように思う。性的好奇心を満たすために、自ら勉強し、それを同級生に教えることで、何か自己満足しているように思えてならない。
塚原は、そんな勉強をする気にはなれなかった。
「自分から、知りたいなんて思うのは罪悪なんだ」
という気持ちになっているからであった。
それは、厭らしさがこの世のものではないと思うくらいの女の子を見つめる目をした表情を見てしまったからで、性的好奇心がありながら、それを強引にでも打ち消そうとする、無理をしてしまっているようだ。
実は、これは自分だけのことではなく。思春期に陥ると、ほとんどの人は、性的好奇心を自ら満たそうとするか、あるいは、恥ずかしさや、自己嫌悪に陥りたくないという理由から、わざと性的好奇心を見ないようにしようと考えている人が多いだろう。
つまり、性的好奇心を自分から満たそうと感じる人以外は、皆見ないようにしようと考えているのだと思ったのだ。
そうなると、好奇心旺盛な人も結構いるだろうが、それ以外というと、大半ということになり、塚原はその多大勢の中の一人ということになる。
それは、元々、
「他の人と同じでは嫌だ」
と感じている塚原にとっては、あまり好ましい状態ではないが、二者択一ということであるならば、
「これもしょうがない」
と、感じるのであった。
行方不明
友達の田舎にある、神社の井戸というところに行ってみた。友達が連れて行ってくれたのだが、最初は、そこまで興味を持つようなところではなかったのだが、実際に行ってみると、想像を絶するものであった。
境内の狛犬が狐のように見えることを友達に指摘すると、
「ここは、昔からキツネが出てきて、人を化かすという伝説が伝わっているということと、それに、子供の守り神であるキツネ様を、それぞれ祀るという意味で、狛犬をキツネに似せているというんだよ。右と左どっちがどっちだったか忘れたけど、どっちかが、人を化かすキツネで、もう一つが、子供の守り神のおキツネ様だっていうんだ」
と教えてくれた。
「君が見わけのつかないほど、似ているのに、善悪両方を示しているというのは、どこかおかしいという感じがするんだけどね」
というと、
「そうだね、でも、人を化かすキツネが、子供の守り神だったとして、それの何が悪いんだい?」
というではないか?
塚原が、
――こいつ、何を言っているんだ?
と思っていると、彼は続けた。
「別に人を化かすといっても、悪いことをしているわけではない。人のためにやっていることもあるのさ。化かすことで、相手を危険から守るというそういういいキツネだったといわれているんだ。化かすことは悪いことだというのは、人間が勝手に思い込んでいることであって、しかも、言葉には裏というものがある。だから、一旦裏に回ってしまったら、そこから表が見えるというものさ。子供を守ってくれるというのもそういうことで、子供って、意外と人のいうことを聞かないことが多いだろう? 化かしでもしないと、相手に信じてもらえないとするならば、化かすことは悪いことではないよね?」
というのだった。
なるほど、そういわれてみれば、確かにそうだ。
人を化かしてでも、相手を危険から救うというようなおとぎ話があったような気がする。
普通なら、
「悪いことだ」
と一般的に言われていることでも、仕方がない時であれば、それは善行だといってもいいのではないだろうか。
それを思うと、キツネのように、
「かたや、悪いことをしていたり、妖怪だといって恐れられているものであっても、別のところにいけば、神様として祀られているというものもあったりする」
と感じた。
そう、たとえば、河童などもそうではないだろうか? 妖怪だということで、人を食うという伝説もあれば、河童を神様として祀っているところもあるではないかと感じるのであった。
そんなおキツネ様の狛犬を横目に見ながら前に進んでいると、もう一つきになることがあった。
石でできている狛犬を横目に見ながら前に進んでいくと、どこまで行っても、狛犬と目が遭ってしまうような気がする。まるで、目だけが生きているかのようだ。
このことを友達にいうと。
「塚原君も気づいたんだね? 僕も何度目かに気づいたんだけど、目で追いかけられていると思うと気持ち悪くてね。でも、それほど嫌ではないんだ。見つめられているのは、子供だからなんじゃないかと思ってね。きっと大人になったら、そんな感覚はないと思うんだ」
といった。
それを聞いた塚原は、
「それ以前に、まずこのことに大人になってから気づけるかどうかという方が強いような気がするんだ。ひょっとすると目が追いかけてくるかも知れないけど、大人は決して、気づくようなシチュエーションに陥ることはないということだね」
といった。
友達は、
「うんうん」
と頷いていたが、その表情は関心したような顔で、きっと、想像もしていなかった回答だったのだろう。
そんなキツネを後ろに感じながら、境内の奥に進んでいく。
二人は、お参りをしたのだが、塚原は何をお祈りしていいのか分からなかったので、とりあえず、手を合わせるだけだった。神社に行って手を合わせるなど、今までは一年に一度、初詣に行く時くらいだっただろう。