歴史の傀儡真実
ということで。そこにあるのが、琵琶湖だということが分かっているにも関わらず、驚いたのだ。
なぜなら、三河というところは、浜名湖がある。
自分も領内にある浜名湖というものを見て知っていただけに、琵琶湖の方が広いとは分かっていても、ここまですごいとは思っていなかったので、ビックリと言う言葉を通り越していた。
連れの連中も、このリアクションは、想定内だったようで、ビックリして立ちすくんでいる重光を見ながら、ニンマリと笑っていた。
彼らからは、期待していたリアクションだったのだろう。
それだけ、重光は純粋だった。
今はかなりそれから成長もしているので、それだけ、一皮も二皮も剥けたのだろうが、重光の純粋さは変わっていなかったのだ。
重光は京に入って、廃墟になった街を見て、先ほど見た琵琶湖の感動とは正反対の思いに至ったことだろう。
その時に何を感じるかということが重要であり、重光のお供の人たちには、その時の落胆ではあるが、目の輝きを失っているわけではない重光の目を見た時、
「これなら大丈夫だ」
と感じたものだった。
そして、その役目が、この廃墟の復興だというのも、お供の人たちから見れば、
「ケガの功名だ」
というくらいに思っていた。
彼らは、もし、他のところに配属になるようだったら、一言進言してみようとまで思っていたようだ。
今の幕府の勢いからしたら、言ってみれば、簡単に覆るくらいではないだろうかと思うのだった。
どうしても、最初は田舎から出てきたという意識もあってか、京の町の大きさにびっくりさせられ、どうしていいのか分からなくなってしまったが、考えてみれば、最初から全体を見るのではなく、できる範囲に細分化して、できるところから対処していけばいいだけのことだ。
実際に細分化してみれば、どこが復旧に時間がかかりようで、どこが掛かりにくいかということが分かってきた、手を付けやすい場所から片付けていけば、次第にそれまで難しいと思っていた遠いところも、すぐ横が復旧しているのだから、その流れでできるというものだ。
まずが、細分化が必要だった。
この作業は、自分と、自分のお供として三河から来た家臣とでやることになった。補佐としていてくれたが、この男、算術にはかなりの才能があるようだった。
彼は名前を、三上頼経という武将で、重光より、五歳ほど年上だが、たえず、重光をサポートする役目で、一番頼りにしている家臣だった。
三上家というのは、三河の国主の家老としては、一番手であり、先々代から、門倉家の家老として仕えていたのである。
その中でも、頼経は、才能に溢れていることで、重光も、家臣とはいえ、一定の尊敬の念を抱いていて、いつでも、そばにおいておきたかった。
今回も都に行くということで、お供の一人が頼経であってほしいと思っていたのだが、頼経であったことで、
「おお、小兵六と一緒というのはありがたう」
と言って喜んだものだ。
小兵六というのは、頼経の通称で、子供の頃から、そう言って、一緒にいた証拠であった。
「普請工事というのは、算術ができないと、何もできませんからね。私が算術を学んだというのは、御曹司が殿となった時、私が普請事業でお役に立ちたいと思ったからなんですよ」
という。
確かに頼経は、算術に関しての知識と発想力には感服するものがあるのだが、それ以上に、頼経の武術には頭が下がる。
領内でも、なかなか頼経と武勇を競っても、勝る相手はいないのではないか?
と言われたほどに、頼経の武勇は、知れ渡っていた。
ある日、隣国の同盟を結んでいるという領主が、表敬訪問に来た時、
「三上頼経という家臣がいると聞いてきたにだが」
と切り出した。
「はい、おります。今は息子に仕えてくれておろのだが、まだ元服してすぐなので、まだまだこれからだと思っております」
と、父親が、若さを強調したいというのと、
「そんな若い人間をあなたが指名したというのはどういうことなのか?」
という含みのような思いを持って、言ったようだ。
「そうか、わしが見て、使えると思えば、わしのところに連れて帰りたいと思ってな」
というと、父親の表情は、まるで敵でも見るかのように、一瞬こわばってしまったが、
「いやいや、これは、悪い冗談であったな」
と言われたので、一気に緊張の糸が切れたようだった。
事なきを得ることができたが、
「まあ、もう少し時間が経ってから、もう一度見たいものですな」
と言って高笑いをしたことから、まさか、父親が頼経を手放そうなどと思っていないことを百も承知で窯を掛けたのだった。
もし、窯を掛けられて、それに乗るようでは、頼経という男も大した人物ではないということだろう。
と、相手は思ったに違いない。
「ただ、わしは、彼のように聡明で、武勇に長けていながら、普請作業をさせれば、右に出ることのないと言われる才能を、戦にも生かせないかと思ってな」
というのだった。
きっと、自分の右腕になるような参謀役ということで、欲しかったに違いない。
ただ、簡単に乗るようでは、安心して家臣として使えない。今回のように、しっかりとガードを張るくらいでないと、家臣は守れないし、まわりに対して信憑性もないだろう。
それを思うと、隣国の殿様は、しっかりと見極めることができたのだろうと思った。
最近は会っていないが、最近はよく都にも来ているということなので、
「そのうちに、会えることもあるだろう」
と考えていた。
この時代から、参勤交代というのが行われていて、それは、三代将軍の義満の時代からだったが、応仁の乱の前あたりから、参勤交代をする大名はいなくなった。
目的は、江戸時代と同じで、
「大名に金を使わせて、幕府に歯向かう力をつけさせない」
という理由だった。
しかし、この当時は、大名行列というものはなく、質素なものだった。確かに大名の財政をひっ迫させるというのが大きな目的だったが、それ以上に、
「将軍警護であったり、幕府の仕事の一旦を担わせる」
などという目的もあった。
いくら、幕府の力が弱まったとはいえ、腐っても幕府である。江戸時代のような、幕藩制度が確立されているわけではないので、それぞれの大名もそれほど強い立場というわけではない。
庶民派、大名よりも地頭の方が怖いくらいで、
「泣く子と地頭には勝てない」
という言葉があるが、まさにその通りである。
だが、応仁の乱で参勤交代などありえない状態になった。
というのも、東軍と西軍に別れて、戦をしているが、それぞれの兵というのは、守護大名が京都に来て、戦をしていたのである。
だから、応仁の乱の最後の方では、
「自分の国の家老などが、反乱を起こし、足元が危なくなってきた」
というのは、
「鬼の居ぬ間に、クーデターを起こそう」
という、いわゆる、
「下剋上」
だったのだ。
したがって、自国が危ないのに、いつ終わるとも知れない。中央での戦争など、やっていられないのも同じだった。
もちろん、東軍も西軍も、その主導者から、
「勝った暁には、所領を倍にしてやろう」