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歴史の傀儡真実

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 幕府軍は、役二十万近くの軍勢で、京に攻め上った。数の上でも郵政だったので、朝廷軍はひとたまりもなかっただろう。
 そこで、初めて、本当の意味での幕府政権が出来上がったと言ってもいいだろう。
 最初の幕府政権とは違う形であったが、北条氏にとっては、独裁政権が築けたと言っておいいだろう。
 そこから少し安定した時代があったのだが、そこで訪れた元寇襲来事件。追い払ったとはいえ、攻め込んでの領地を得たわけではないので、与える恩賞な何もない。
 こうなると、幕府の骨組みは根底から狂ってくる。
 そこで、鎌倉で反乱がおこり、さらに、後醍醐天皇による、倒幕が始まるのだ。
 鎌倉幕府に不満を持つ武士が、朝廷側につく。しかも、朝廷弾圧に向かったはずの足利尊氏が、朝廷側に寝返った。
 幕府の崩壊は時間の問題だった。
 崩壊した幕府に変わって、今度は、後醍醐天皇が、
「建武の親政」
 を敷いた。
 これは、今までの武家政治から、完全に朝廷主導の政権になっていた。
 平安時代までの公家や貴族中心の政治であり、ないがしろにされた武士は、尊氏を慕って、今度は天皇に弓を弾くことになる。
 そんなこんなで出来上がった室町幕府であったが、朝廷が南北に別れるという南北朝という時代を作ってしまった。
 三代将軍、義満の時代には、室町幕府最大の勢力と権威を持つに至ったが、そこから先は、ずたずたであった。
 何と言っても、十五代歴代将軍のうち、二人が暗殺されていて、一人がくじ引きによってえらばれた将軍であった。さらに一人は、将軍とは名ばかりで、一度も御所に入ったことのない将軍もいたという。
 特に義満からあとは悲惨なもので、幕府の財政を顧みることがなかったり、何と言っても八代将軍、義政の時に起こった応仁の乱はひどいものであった。
 義政の正室であった、日野富子に子供ができなかったことで、出家していた弟を将軍後継にすると言ったことから問題が起こった。
 その後皮肉にも、富子に男の子が生まれ、義政は困ったが、どうしても、自分の子供を将軍にしたい富子が、山名持豊に助けを求めた、将軍の補佐役としての細川勝元と犬猿の仲であった山名は、これをいい機会と捉え、さらには、有力御家人の畠山氏のお家騒動も絡んできて、京都は東西に分かれて、大きな戦になったのだった。
 これが応仁の乱であり、全国から大名が招集されて、十一年にも及ぶ戦が起こったのだった。
 ただ、最後は、山名持豊も、細川勝元も死去し、さらに、戦争に駆り出された守護大名のお膝元である自分の領地で、家臣たちが謀反を起こしたりして、足元に火が付きだしたことで、続々と、兵が諸国に帰っていった。
 もうこうなったら、戦争などできる状態ではないということで、結局、どっちが勝ったというわけでもない状態で、京都が廃墟になっただけとなり、結局、室町幕府の権威は、完全に地に落ちてしまったといえるだろう。
 そこから、ちょくちょくと、小競り合いのようなものが起こるようになったが、もう、幕府に抑える力はない。
 そこで起こってきたのが、
「各地における守護大名の力の増大」
 であった。
 ここから、突入する戦国時代というのは、幕府から眠名された守護大名がそのまま、戦国大名になるというパターンもあれば、守護大名の家来が、守護大名に対して謀反を起こし、とってかわることで戦国大名んなるというパターン、さらに、国人と呼ばれるその土地にもとからいた、有力豪族が、守護大名を滅ぼして、自分が大名になるというパターンである。
 これらのクーデターを、下の者が上の者に成り代わるということで、
「下剋上」
 と呼ばれたのだ。
 そうなってくると、室町幕府は、有名無実ということになり、将軍の権威などあってないようなものだった。
 初期の戦国大名は、京都から離れたところから出てきた。
 関東の伊勢新九郎。彼が、関東を平定し、北条氏を名乗った。
 いわゆる、戦国大名、
「北条早雲」
 である。
 彼の築いた北条氏のよる天下は、秀吉の関東征伐で滅亡するまで、五代の栄華を誇った。北条早雲のことを、戦国大名のさきがけと呼んでいいであろう。
 さらに、西国では、大内氏が収めていた今の中国地方で、大内氏に対して謀反を企て、成功した相手を、
「三大奇襲」
 と呼ばれる戦である、
「厳島の合戦」
 で打ち破り、中国地方平定に名乗りを上げた毛利元就であろう。
 ちなみに、三大奇襲と言われる戦のもう一つは、前述の北条氏三代目である氏康による、
「河越夜戦」
 と呼ばれるものであった。
 さらに、もう一つは、世にも有名な、織田信長における、
「桶狭間の戦い」
 であった。
 いずれも、相手の兵力が自分たちよりも相手が圧倒的に勝っていることで言われた戦であるが、毛利元就の。
「厳島の合戦」
 では、寡兵であるほど有効な作戦を取った。相手の大群を、身動きも取れないほどの狭いところに追い込んで、周りから攻撃するという、実にうまい作戦だったのだ。
 島津氏が得意とした、
「釣り野伏せ」
 などと同じで、寡兵に対しての戦法としてうまい方法もあることを証明したのだ。
 戦国大名がどんどん出てくると、まずは、自国の統一を終えた戦国大名は次第に、近隣の土地を侵略するようになる。
 いわゆる、
「群雄割拠の戦国時代」
 というわけだ。
 そんな時代において、武勇に秀でた戦国武将が勢力を拡大していくのは当たり前のことだが、領有している土地を収めるのも、戦国大名にとっては大切なことだった。
 何しろ、自分が下剋上で上り詰めたのだから、油断すると、今度は自分が下の者からやられてしまう。敵は外にも内にもいるという覚悟が必要だ。
 そういうこともあり、戦国大名は、それぞれに、自分の領地と立場を守るためには、まわりの国に攻め込むだけではなく、同盟を結ぼことも辞さなかった。
 たとえば、自分の家族にあたる人間を、隣国の大名に嫁がせるという、
「政略結婚」
 や、人質を差し出させることで、下剋上ができないようにするなどということもしたりしていた。
 群雄割拠の下剋上の時代である。戦以外にも、頭を使わないと生き残ることはできない時代だったのだ。
 さらに、戦国時代は戦ばかりをしていたわけではない。領地でコメが取れなければ、戦をしようにも兵糧などもない。
 水害に見舞われるところであれば、大名が堤防を作らせたり、人工の運河を作り、水路を確保したりという、土木工事も大切だった。
 それが、城づくりにも生かされるようんなり、何といっても、攻められた時のかなめである城は大切であった。
 今残っているような、天守閣を持った優雅で壮大な城というのは、戦国時代には存在しなかった。
 ほとんどが山城で、堀などというものも簡素なもので、まるで櫓や砦と言った形のものを、一般的に、城と言っていたのだ。
 だから、実際に多い時には、宣告に数万もあったという。今でいうコンビニの数よりも多かったというのだから、すごいものである。
 それが、次第に、城に天守閣などが築かれるようになり、それが、権威になってきた。信長という男の存在感が現れてきたのが、この時代だったのだ。
作品名:歴史の傀儡真実 作家名:森本晃次