歴史の傀儡真実
という語呂合わせではないというのだ。
「いいくにつくろう」
は、頼朝が征夷大将軍に任じられた時であり、この時に幕府を開くと宣言しているわけではない。鎌倉政権という形はあるが、それを誰が幕府と言ったのだろう。どうやら、のちの時代に、
「源氏の政権を、鎌倉幕府といった」
ということになるのだろう。
源氏は三代で滅亡しているが、それ以降の北条氏における執権政治が、鎌倉幕府の政治だとすると、征夷大将軍はお飾りであって、執権が政権のトップだという、少し歪な政権になっている。
元寇という予期せぬ事態によって、幕府の滅亡が早まってしまったが、少なくとも、封建制度が確立されたのは、間違いなく、初代将軍の頼朝の時代であり、それがそのまま武家政治ということになるのだった。
元々鎌倉幕府というのは、一種の、
「烏合の衆」
であった。
平家が都で権勢をふるっている時、平家以外の公家も武家も、平家に取り入っている連中以外は、いろいろ覆うところがあっただろう。平時忠の、
「平家にあらずんば人にあらず」
と言ったなどというエピソードがそれを示している。
藤原摂関政治の時も、不満を抱いている人もいたであろうが、何しろ、藤原氏は貴族である。昨日今日出てきた武士とは違うという意識があるのだろう。
しかも、武士たちからすれば、平家が公家化していくのを見るのも嫌だったに違いない。貴族や公家が本来ならなるポストに上がって行って、そこで権勢をふるう。しかも、親族を皇族に嫁がせて、皇族と親戚関係を結ぶ。自分が帝の祖父などというと、もう、平家に逆らうものはいなくなるという計算だった。
これも、以前から行われていることであり、藤原氏などの常套手段ではないか。藤原氏としても、たまったものではないだろう。
もっとも、清盛としては、自分の父である忠盛が、清涼殿に上るようになるまでに、貴族から蔑まれてきているのを見ているので、
「今度は自分が」
と考えたとしても、無理もないことだ。
とにかく、自分の目の黒いうちは、平家の栄華を盤石なものにしないといけないと思ったはずだ。
清盛は、義母の命乞いがあったからと言って、頼朝や義経などを処刑しなかったこと。そして、平家を貴族化させてしまい、戦もまともにできない後継者しかいなかったこと。
そのあたりが、平家の命とりになったのだろう。
そういう意味では、源氏も平家を滅亡させてから、三十年もしない間に、滅亡してしまうのだから、歴史というのは、実に面白いものである。
頼朝は、清盛の失敗を繰り返さない。決して都に上ろうとせず、関東の足場を固めた。
だが、清盛と同じことになってしまったという皮肉は、
「自分の死後、ロクな後継者がいなかった」
ということであろうか?
頼朝の死後は、まだ、十歳代の長男の頼家が、二代将軍になったが、その嫁の実家にあたる比企氏ばかりを重宝し、他の御家人の怒りを買い、幕府成立に貢献した十三人の御家人たちによる合議制が敷かれたのだ。
しかし、頼家は、グレてしまい、母親の政子から、幽閉され、最後は殺されてしまった。そして、比企氏も滅ぼされた。
そして、その次に将軍になったのは、まだ十三歳の実朝だったが、彼は和歌や文化人としては優れていたが、政治にはまったく興味がなかった。
その頃になると、十三人の合議である御家人たちは、権力争いや謀略によって、次々に滅んできた。
そして、最後に残った北条氏が、幕府の権力を一手に握ることになるのだが、その北条氏に一泡吹かせようと、最後に残った有力御家人の三浦氏が二代将軍だった頼家の息子に対して、
「父親を殺したのは実朝だ」
と吹き込んで、実朝暗殺をほのめかしたが、本当の殺害目的は、二代目執権の北条義時であった。義時は難を逃れたが、実朝は殺され、そして、実行犯である頼家の息子も、北条氏に滅ぼされた。
これで、源氏の将軍家血筋は耐えてしまったのだ。
ここから先は、北条氏の天下であったが、アジアを全体を統合し、大帝国を作り上げた中国の王朝である元が、日本に対して攻撃を加えてきたのだ。日本は苦戦したが、
「神風が吹いた」
という言い伝えで、何とか侵略から逃れることができたが、戦争に参加した武士に対して、論功行賞をしようとも、敵から奪った土地もないので、何もできなかった。
封建制度の仕組みとして、家臣が領主である主君に、
「有事の際は、戦争に参加する」
という兵役を追うが、それはあくまでも、論功行賞を含むものとしての兵役である。
借金をしてまで、国防に参加したのに、恩賞がないのであれば、兵役に対しての球菌がないのと同じで、生活できない事態に追い込まれる。幕府も土地を奪ったわけではないので、与える土地はないのだ。これが、鎌倉幕府滅王への第一歩だったのである。各地で幕府に不満を持つ武士が、一揆を起こすのも、無理のないことであった。
鎌倉幕府は、確かに外敵から攻められたことで、国家が不安定になったのも仕方のかいことではあったが、そもそも、幕府に対しての不満というのも、当然あったことだろう。
何といっても、鎌倉幕府は、北条氏の独裁だった。元々は、坂東武者が朝廷とは違う、
「武士の世の中」
を作り出したということで、
「いざ鎌倉」
などという言葉があるように、封建制度のつながりをあらわした言葉である。
将軍は、御家人に「恩恵」としての土地を与え、御家人は「奉公」として、有事の際には、将軍のために戦うことを誓う。
それが証明されたのが、鎌倉幕府最初の危機だった、
「承久の変」
であろう。
源氏が三代で滅亡sたことで、幕府が公家から、将軍になれるような人物を探そうとした時、朝廷の方でも、
「今なら、鎌倉幕府を倒すことができる」
として、遠征軍を差し向けることにしたのだ。
ここで困ったのが、御家人たちである。
本来なら、鎌倉幕府との間に形成された封建制度で、
「いざ鎌倉」
の精神にのっとり、
「遠征軍を我々で迎え撃つのだ」
というくらいの気概があっても当然である。
何しろそれが武士というものだからである。
しかし、ここで一番の問題は、
「相手が、朝廷の遠征軍だ」
ということである。
「ここで戦ってしまうと、自分たちは朝敵になってしまう」
ということであった。
いくら、幕府ができて、武家政治が確立されたとはいえ、日本で一番偉いとされるのは、帝である。
帝に弓を弾くということは、末代まで、
「朝敵」
という汚名を着せられるということであった。
自分はもちろん、家族、子孫にまでその汚名は残ってしまう。それは、あってはいけないことである。
ということになると、御家人の士気は完全に下がってしまう。
そこで、北条雅子が御家人の前で演説をする、
「初代将軍の頼朝公は、皆の土地を守り、武家政治を確立し、武士が朝廷や公家から、虐げられることのない世界を作った。この御恩は、海よりも深いものである。今こそ、その恩に報いるように、坂東武者の力を、見せつけようぞ」
と言ったことで、朝敵になることを恐れていた御家人たちは、覚悟が決まり、一枚岩になった。