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歴史の傀儡真実

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 傀儡国家として存在している南部蝦夷国では、実際に、自分たちが操られているという意識は低いようだった。
 むしろ、
「ロシアの脅威を持った北部蝦夷国の圧力から、イギリスの権威が守ってくれているのだ」
 という意識が強く、操られているどころか、守られていると思うことで、イギリス人は、その立場を維持している。
 これは、安全保障上、非常に大切なことで、
「守ってもらえるのだから、それなりの条件があっても、それは無理もないことだ」
 といえる。
 さらに、南部蝦夷国にいる原住民であるアイヌ民族は、
「保護してくれるのであれば、どこだってかまわない」
 と思っている。
 それが、日本本土であっても、イギリス国であっても、スペイン国であっても同じなのだ。
 そういう意味では、北部蝦夷地におけるアイヌ民族も、
「ロシアに守ってもらっている」
 と思っているだろう。
 もし、いつ一触即発の両国が、戦闘状態に突入するか分からない。そうなってしまうと、
「果たして、どっちが強いのか?」
 ということになるが、実際の戦闘は、原住民が行うだろうが、指揮を執るのは、宗主国である、ロシアであったり、イギリスの司令官に違いない。
 だからこそ、代理戦争の様相を呈しているわけで、逆に言えば、実力が拮抗しているのであれば、そこに均衡という状態が生まれ、どちらから攻めるというわけではなく、睨みあったままの、膠着状態が続くことになる。
 それを平和といえるのだろうか?
 膠着状態が続くことで、戦闘には発展しないが、果たして緊張感がどこまで続くことだろう。
 人間には、そこまで緊張を持続できるほどの強さが備わっているわけではなく。文明を持った動物というのは、えてして、本能を持った本当の意味での闘争反応はないのではないか?
 本当に極限状態に陥れば、本能が勝手に動いて、
「動物的な勘」
 が潜在的に持っていた感情と相まって、本来の姿を取り戻すのかも知れない。
「人間という動物だけが、自分の私利私欲で戦争をする」
 というがその通りだろう。
 戦争を、本能と本能のぶつかりのように感じるのであれば、それは、潜在しているものが、もっと表に出てきているものでなければいけないだろう。
「表に出ている部分が大きいから、潜在しているものも大きいというわけではなく。潜在しているものに変わりがないから、上に出ている部分が、明らかに違ったものに見えている」
 といえるのではないだろうか。
 それが、人間と動物と呼ばれているものの違いであり、
「人間は、脳の数パーセントしか使っていない」
 という発想にもつながっていくのだろう。
 当時に、超能力と呼ばれているものがあったかどうか定かではないが、超能力として考えられているものの候補としては、祈祷なのではないだろうか。
 祈りを捧げることで、雨を降らせたり、病気を治したりする。また、戦勝祈願など、自分たちが必死でやっていることまで、最後は神頼みだ。それだけ、普段から、
「人間の力など知れている」
 と、思われているのかも知れない。
 確かに、戦などというと、自分ひとりでできるものではない。戦争する相手がいて、相手も同じように、指揮官がいて兵隊がいる。実際に、指揮官のいう通りにすべての人間が動くわけではなく、実際に寸分狂わず動いたとしても、作戦が元々おかしければ、成功するものであってもしないといえる。
 だが、逆に、
「成功するもの」
 とは何だろう?
 成功するはずの作戦でも、駒がうまく機能しなければ、失敗に終わる。逆に失敗するはずの作戦でも、兵が無能であれば、
「予期せず行動として、相手に疑心暗鬼を与え、精神的に苦しめることで、勝利が転がりこんでくるかも知れない」
 といえるだろう。
 それだけ、偶然が重なったといえることでも、成功すれば、相手に勝つことができるというものだ。
「成功は時の運ともいうだろう」
 神頼み、えてして重要な要素だったりする。
 時代的にはもう少し後になるのだろうか。
 九州の大友氏と島津氏が戦った、有名な、
「耳川の戦い」
 において、
「その日は、占いで戦闘をしてはいけない日だ」
 ということが出たにも関わらず、大友宗麟が強硬に戦闘を行ったことで、敗北してしまったという逸話が残っている。
 だが、よく考えれば、これもおかしな発想であって、
「占いに、戦闘にふさわしい日だ」
 というのが出ていたとして、結果同じ、敗北であった場合、歴史上はなんといわれるのだろう?
「占いで、戦争に最適だという言葉を信じて戦いに挑んだのに、負けてしまった」
 と言われることだろう。
 その場合は、間違いなく、占いのことには触れずに、
「その作戦が悪かった」
 あるいは、
「兵が想像以上に機能しなかった」
 などと言われることだろう。
 それが、日本人の、
「謂われ」
 というものではないだろうか。
 戦争がうまくいかなかったことを、祈祷において、どちらに祈祷の判断があったかということで、何が悪いかが変わってくる。それも、実に不可解なことであり、理不尽ともいえることに思えるのだった。
 この、
「耳川の戦い」
 において、大友宗麟が、祈祷の忠告を聞かなかったというのは、ひょっとすると、
「宗麟がキリシタン大名だ」
 ということに関係があるのではないだろうか。
 キリスト教を信じることで、戦での祈祷師の言葉というものを、どこか軽視していたのかも知れない。
 日本の古来から伝わっている仏教精神に則った占いなのではないかと思うので、ここで宗麟の中に、宗教同士確執が、ジレンマとなって襲い掛かっていたのかも知れない。
 宗麟としては、敗北したことで、これ以上の自己嫌悪に陥ったことがないように思えるが、どうであろうか?
 大友宗麟というのは、
「果たしてどこまでのキリシタンだったのだろう?」
 というのも興味深いことだった。
 当時は、キリシタン大名というのも結構いた。だが、よく考えてみれば、おかしな気もする。
「人を殺めてはならない」
 と、十戒にも書いてあるのに、戦闘集団であるキリシタン大名に、キリシタンがいるというのは、何か矛盾している気がするからだ。
 しかし、世界史的に考えれば、この矛盾は世界レベルだといえるのではないか?
 何しろ今までに起こっている戦争で、結構宗教がらみの戦争も少なくない。
 特に、
「聖地を取り戻す」
 という名目のもと、組織されたのが、十字軍というものではなかったか。
 それに、
「宗教戦争」
 などという言葉も存在し、昔から、宗教による宗派に対しての争いであったり、土地の問題、さらには、彼らのプライドの問題であったりと、宗教という名前を冠していても、普通に争いというのは起きるもので、きっと彼らはそれを、
「自衛」
 という言葉で示すのだろう。
 元来、宗教というものは、自給自足の考え方が多いので、
「自分たちのことは自分たちで」
 ということなのではないだろうか。
 そうなると、当然のごとく、誰も守ってくれないのであれば、自存のための戦争を正当化するのも当然である。
 やはり宗教団体といっても、形成しているのは、個々の人間だということなのであろう。
作品名:歴史の傀儡真実 作家名:森本晃次