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「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」

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 後は、これも本人の一番有名な絵をして残っている武田信玄のあの太った絵も、時代考証に遭わないと言われている。
 最近(と言っても、だいぶ昔だが)、西郷隆盛の絵も、別人だと言われているくらいである。
 このように、昔からまるで、
「神話」
 のように言われてきた、伝説であったり、逸話や肖像画なども、最近では違う解釈が持たれている。
 もちろん、それは、発掘調査の技術も進み、たくさんの歴史的に重要なものが発掘されたことから裏付けられることで証明されているものもあるだろうが、肝心の人間の考えが変わらないと難しいことである。
 昔から言われている伝説や信仰を覆すということは、相当に難しいことであり、反対勢力もかなりある。
 それだけに、
「最初から疑ってかかる」
 という感覚がなければ、ここまでかつての神話を覆すのは難しいであろう。
 禅問答」
 というのは、そういう意味でも、大切なものではないのだろうか。
 一つの固定観念や思い込みがどれほど、科学の発展を妨げるかということを、宗教でいう、
「悟り」
 というものに裏付けられるというのは、何と皮肉なことであろうか。
 しかも、
「固定観念を打ち破る」
 という発想が新しい時代を作ったり、過去のものを覆すことになるというのは、歴史が証明していることである。
 中世における、
「ガリレオ=ガリレイ」
 という人物によって、考えられ、死んでから証明された、
「地動説」
 宇宙の仕組みを分かっていない人たちから考えて、空ではなく地球の方が動いているなどという話、下手に宗教が絡んでくると、
「邪教ではないか?」
 と言われかねない。
 だからこそ、迫害を受けながらでも、ガリレオは、
「それでも地球が回っている」
 と言って、一人頑張ったのだ。
 ひょっとすると、仏教の世界でも、表に出てこなかっただけで、禅問答の中に、この、
「地動説」
 のようなものが埋もれていたのかも知れない。
 当然、そんなことを大っぴらに書き残すことができなかったので、禅問答の中の深いところに含まれているかも知れないと思うのは、無理もないことではないdろうか。
 同じ中世の予言者に、
「ノストラダムス」
 という人物がいて、彼が予言した内容が、ほとんど当たっているということで、中M九を浴びた。彼は、自分の予言を四行詩というものの中に、一見それとは分からないように残していて、解釈によって、ほとんど当たっているとされたのだ。
 そのこともあって、世紀末に、
「地球絶滅説」
 というのが、全世界で信じられ、各地に残っている世界崩壊説のようなものよりもさらに説得力のあるものだったのだ。
 さすがに、解釈した人たちの解釈では当たっていなかったことになるが、
「歴史は答えを出していない」
 とは、限らない。
 継続中の予言ということであろうか。
「いっつぃ、恐怖の大王って何なのだろうか?」
 と考えてしまう。
 ただ、これは元々、外国語で書かれたもの(フランス語?)を日本語訳にしたものだ。ひょっとすると、元はフランス語で、それを今度は英語に訳したものを、さらに日本語訳したものかも知れない。和訳するために、何度も途中で訳しているとすれば、少し解釈も変わってくるのではないだろうか。
 そういう意味でも、そもそも、外国語を訳しているのに、
「四行詩」
 というのも、いかなるものなのだろうか?
 そうやって考えると、どこまで信憑性があるのか分からない。一生懸命に読んだ時期もあったが、最初こそ、
「ノストラダムスの大予言を探求しよう」
 と思っていたが、何冊も読んでいくうちに、単純に、
「世界史の勉強」
 ということになってしまったいたのだった。
「禅問答」
 という意味では、
「意味不明で、解釈に困るような質問に、理屈抜きで答える」
 ということにかけて、
「ノストラダムスの大予言」
 解釈というのは、まるで、この禅問答のようではないかと考える人も少なくないかも知れない。
 それを思うと、
「自分にも、何か禅問答というのができるのではないだろうか?」
 と考えるのだった。
 そこで、一つ思いついたのが、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
 という理論である、
 これは、一種のパラドックスのようなもので、これに対しての回答は、たびん、ないのではないかと思われる。
 ニワトリと答えたとしても。タマゴと答えたとしても、それに対しての質問は決まっているからである、
 決まっているというよりも、どんな質問をしても、言葉が違うだけで、ニュアンスは同じだというのか、ニワトリと答えたとしても、タマゴと答えたとしても、、
「じゃあ、その答えたものは、どうやってできあがったの?」
 という質問をされるだろう、
「ニワトリ」
 と答えれば、
「じゃあ、どうして、ニワトリは存在しているの?」
 と聞かれるだろうし、
「タマゴ」
 と答えると、
「じゃあ、タマゴは何から生まれたの?」
 と聞かれるに決まっている。
 そもそも、この質問は、
「二者択一」
 の問題である。
「〇か×か?」
 というのと同じであり、答え自体は決まっていることだ。
 二者択一の問題というのは、考えてみれば、成否の問題と言ってもよく。答えたことが正解と同じであれば、正であり、間違っていれば、誤なのだ。
 この場合、正答がないとするならば、どちらも正しい、あるいはどちらも間違っているということであり、二者択一の問題としては、成立していないことになる。
 だが、それはありえないことだ。限定的な質問に答えが存在しないのであれば、やはり質問の仕方が間違っている。この問題が果たしてそうなのかどうか分からないが、禅問答だと考えれば、別の答えが出てくるようで、そこに倫理や宗教が入ってくることで禅問答になるのだとすれば、逆に、
「禅問答に対して、回答を求めること自体が、矛盾しているのではないか?」
 と考えられるだろう。
 そこに答えを求めるのが禅宗という宗教であり、そこには、れっきとした考えや理由がそんざいしているのだろう。
 だから、禅問答というのが、存在しているのかも知れない。

                 国際的委任独立国家

「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
 という発想を思いついた時、同時に別の発想が頭に浮かんできたような気がする。
 それは、、
「人間は、生まれてくることを選べない」
 ということである。
 この発想は逆に、
「死ぬことも選べない」
 ということであるということに繋がってくるのだった。
 確かに人間は、
「いつ、誰から生まれるか?」
 ということを選ぶことはできない。
 金持ちの家に生まれれば、金持ちの子供として育ち、貧乏な家に生まれれば、貧乏な子供として育つというのは、当たり前のことである。
 特に昔は、身分制度などというものがあり、士農工商などは、
「武士に生まれれば、死ぬまで武士、農民に生まれれば、死ぬまで農民」
 という、いわゆる、職業選択の自由というものが、存在しないということになるのだ。
 ただ、これは、支配される方からすれば理不尽なことであるが、支配階級からすれば、至極当然な政策である。