「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」
というものがあったが、これは似て非なるものであり、根本的に違うものだ。
ただ、広義の意味での熱中症というのは、日射病というのも含むという意味でがあるということを、意識しておいていただきたい。
高温の場所で起こる、熱による障害を総称して、広義の意味での熱中症と言います。そして、その熱中症の中で、直射日光などに当たって、体温をコントロールできなくなるのを、日射病といい、締め切った部屋や車の中など、急激に温度が上がる場所で起こるものを、熱射病というが、最近は、日射病よりも、熱射病の方が大きな問題になることが多いので、総じて、熱射病のことを熱中症と呼ばれることになったというのが、簡単な説明となるであろうか。
この熱射病は、子供などのように身体が小さいわりに、水分の出入りが大きく、そして、腎機能が未熟なために、体温のコントロールができずに、熱射病になるというメカニズムである。
この熱射病を予防するには、一番の方法は、水分補給なのだ。そしてこの水分補給も、一時に一気にたくさんの水を飲むわけではなく、適量を数回に分けて飲む形が一番いいとされています、
つまり、スポーツなどで、水分が消耗していけば、当然、その分の水分補給が必要になるということだ。
以前、病院で熱中症の人が救急車で運ばれてきた人がいたが、運び込まれた時、だいぶ意識は戻ってきているようで、その人の話では、
「医者から、熱中症だって言われたんですよ。運動中に意識を失ったらしくて救急車で運ばれたんですが、どうも身体がけいれんを起こしたらしくて、今も半分は身体がマヒしているんですが、なるべく身体に対して意識を持っていないと、油断していると、またけいれんを起こしかねないと言われました。足が攣ったりもするかも知れないので、気を付けてくださいという感じですね」
と言っていた。
熱中症などの知識のない人間は、
「意識が戻れば、もう大丈夫だろう?」
と思うのではないかと感じるが、どうもそうではないようだ。
適度に水分を取って、身体の緊張をほぐすまでは、治ったと言えないのだろう。だから、退院することはなく、そのまま病院で一晩点滴などの治療を受けているということだったのだ。
その人から話を聞いた時、熱中症の怖さが何となくであるが分かった気がした。
「病気というのは、表に出ている反応だけで判断すると、大変なことになる」
と聞いたことがあるが、その通りだ。
「風邪をひいて発熱した」
という時もそうである。
「熱が出るというのは、身体の中に入ってきた風邪の毒素に対して、身体の中の撃退機能が毒素と戦うことで熱が出るのだから、熱が上がっている時に、無理に冷やすのではなく、逆に温めて、熱が上がり切るまで冷やさないようにする。その時は汗が出ないので、体温が上がりきれば、今度は、その時に毒素を一気に放出しようとするので、一気に発汗するという。下着を何枚も着替えながら。その時になって、体温を下げるようにするのだという。その時、身体が治ってきている証拠なのだから」
ということであった。
理屈に合っていることであった。確かに汗を掻き始めると、それまでのきつさがウソのように楽になってくる。熱がまだあっても、上り始めとは、まったく違った症状なのである。それを思うと、熱中症の時も、自分で勝手な判断をせずに、医者のような専門家のいうことを聞くのが一番だと思うようになっていた。
もっとも、自分で勉強していればすぐに判断がつく。本屋に行けば、そんな身体の本は山ほど売っている。今ならネットで調べるというのが、一番手っ取り早いことであろう。
そんなことを考えていると、
「昔の常識が今の非常識」
と、呼ばれることも多いということだ。
そこには、切っても切り離せないものがある。それが、科学の発展というものではないだろうか。
例えば、昔の常識が変わってきているものをと、学問の中での歴史などが特にそうではないかと思える。
それは、いろいろな発掘や発見から、歴史や、考古学の観点で、
「昔から言われていたことが、実は違った」
と立証される発見が増えてきたということである。
特に過去に遡れば遡るほど、起点が違っているということであり、そこから広がる世界は、末広がりではないだろうか。
そうなってくると、違っている可能性はどんどん増えてきて、それこそねずみ算的に増えるのではないかと言ってもいいだろう。
それが元々の考古学ではないだろうか。新たな発見だけではなく、これまでの常識が非常識になりかねないという意味での発想も出てくるというものである。
古代であれば、今と昔での一番の違いは、
「昔の一万円札の肖像画の人物は、聖徳太子ではなかった」
ということである。
厳密にいえば、聖徳太子という名前を付けられる人はもっと後の時代の人間ではないかということから、元々の名前であった。
「厩戸皇子」
と呼ぶのを一般的なものとするようになったという。
また古代において、もうひとつ大きく変わったものとして、以前の教科書には、
「大和朝廷」
と書かれていたものが、今では、
「ヤマト王権」
と呼ばれているという事実である。
これは、以前、
「大和時代」
と呼ばれていた時代を今は、
「古墳時代」
と呼ぶ。
つまりは、大和時代というのは、天皇の勢力が及ぶ範囲の時代ということになり、飛鳥時代と比較して、
「大和朝廷が成立していない時代に、大和時代というのはおかしい」
ということになり、大和時代を古墳時代と呼ぶようになったのだという。
大和朝廷も、ヤマト王権も、そのあたりに微妙に影響してくることから、大和朝廷も存在はしているが、
「今まで大和朝廷とされてきたものは、ヤマト王権ではないか?」
と言われるようになり、違和感を払拭させる形になったのだった。
それ以降の時代でも、一番有名なのが、
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
という語呂合わせで勉強してきた、いわゆる、
「鎌倉幕府の成立年が、違っている」
という発想だ。
なるほど、今まで言われていた都市は、頼朝が征夷大将軍に任じられた年だからという理屈であったが、今は、
「義経追悼のために、全国に、守護地頭を置いたことによって、全国に勢力範囲が確立したという意味での年に繰り上がった」
というのが、現在主張されている年である。
これはあくまでも、
「史実には間違いはないが、起こったことへの解釈年が違う」
というものである。
そういうパターンの歴史認識を変えるという面で、面白いともいえるだろう。
だが、もっと歴史で面白いのは、
「いろいろな肖像画があるが、実際に言われている人を描いたものではない」
というのが、有名な人にもたくさん出てきたということであろうか。
例えば、前述の鎌倉幕府創設者といわれる、源頼朝であるが、実はもっと後期の人物で、足利尊氏の弟の、足利義直ではないかという説があり、有名な神護寺に祭られている絵を、
「伝源頼朝像」
というのだという。
さらに、室町幕府の創始者である、足利尊氏の像として有名な、あの騎馬武者姿も、実は尊氏ではなく、部下の、高師直ではないかという説もあったりする。
作品名:「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」 作家名:森本晃次