「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」
「人間性が嫌だと言って、返品やチェンジができるわけではない。政府から無料の上に、協力金までもらっているのだから、文句もいえない」
まるで、迷惑料と手間賃を、
「かかることを前提にして、もらっているようなものだ」
と言ってもいいだろう。
最初は、さすがに恐ろしかった。今まで見たこともない視線を浴びせてくるし、腰の低さは、気を遣っているからではなく、明らかに低い姿勢から、どんな攻撃を受けても、対応できるようにしている、レスラーのようではないか。
さらに目力も恐ろしい。いつ襲い掛かってくるのか分からないその雰囲気に、恐怖が募ってきて、どうすることのできないでいる。
奴隷の側には、そんな支配者側の事情が分かるはずもない。ただ、
「どうして、俺たちはここにいるんだ?」
という思いだけで、何かをさせられるということには、違和感がなかったのだ。
そもそも、自分たちの島では、たえず動いていないと、いつどこから、何に襲撃されるか分からない。まるで、背中に目があるかのように見えるということをいう人がいるが、まさにそんな感じであろう。
まるで、魔法使いか、忍者のようなその迫力は、別に修行で身についたものではない。普通に生活をしてきて身についたものであり、ただ、文明人の祖先も同じだったはずなのだ。
「一体、どこから違えてしまったのだろうか?」
と考える。
文明を得た人間も、ずっと未開の地で過ごしてきた人間のどこに差があるというのだろうか?
それを考えると、一つの考えが浮かんできた。ただ、それはあまりにも奇抜な発想であるが、それを裏付けるものも残っていることで、どう解釈すればいいのかを考えてしまうのだった。
その奇抜な考えというのは、
「宇宙人飛来説」
である、
「宇宙人飛来」
などというと、ばかげていると思われるだろうが、
「文明は自分たちが開発したのであれば、すべてに行き届くはずだが、そうではなく、しかも全世界に、違った形で文明が生まれている」
ということを考えれば、日本が開国した時のように、江戸幕府にはフランスが、そして薩摩長州には、イギリスが、という、これらは、外国の諸事情によって、味方をする勢力が違ったことで、戦争になったともいえるだろう。
古代の、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河と言われる、
「世界四大文明」
も、まったく違った形の文明である。
それがなぜ起こったのかということを考えると、そこで宇宙人が、幕末のように、それぞれの諸事情によって、支配体制を保つために与えた文明だとすれば、分からなくもない。
そして宇宙人という説の中で、その信憑性を語るには、ピラミッドなどのように、まったく違う文明でも、似通った、嫌、
「似て非なるもの」
というものも存在していることが、
「宇宙人飛来」
ということの証明ではないだろうか?
それを思うと、実に不思議なものだといえるであろう。
そういう意味で、支配者たちにも奴隷の側にも相手を、
「まるで宇宙人のようだ」
と思ったのかも知れない。
そんな支配者と奴隷の関係であったが、最初に近寄ってきたのは、奴隷の方であった。
普通であれば、文明人の方が思考能力は強いはずなので、相手を気遣うということにかけては、経験豊富ということもあり、有利だろうと思っていたが、実際に歩み寄ってきたのは、奴隷たちの方であった。
そもそも、彼らはこちらの世界に自ら飛び込んだわけではなく、強制連行だったのだから、
「何をされるか、させられるか分かったものではない」
というのが、当然の考えであろう、
彼らには本能的に、そんな状態になると、諦めの境地が芽生えてくる。いわゆる、
「諦めというスイッチが存在していて、それをオンにするだけ」
ということなのだ。
しかし、実際には、そんなスイッチを押すことで諦めの境地に入っていたのだが、
「どこかが違う」
と考えた。
この諦めのスイッチを押した時が、一番目力が強くなる時で、それを文明人として分からなかったことが、相手にマウントを取らせることになったのだろう。
奴隷たちが感じたのは、前述のような、
「こんなに楽でいいのか?」
という思いであった。
その思いがあることで、
「この人たちは、俺たちが思っているほど悪い人ではないのかも知れない」
と思うことで、文明人に対して、一定の敬意を表するようになり、それが、文明人に、
「自分たちがマウントを取られた」
という意識に結びついたのだ。
文明人というのは、マウントを取られると、その瞬間、立場関係が確定したと思い込むようだ。
本当はこれからのはずなのに、早々にマウントを取られたと相手が思うのだから、支配者と奴隷という表向きの関係ではあるが、実際には、まったく逆のマウントになっているということで、それぞれに、プラスマイナスがイーブンになったことで、お互いがうまい関係になってきたのだろう。
ほとんどの家庭で、同じような思いに、ほぼ同時期になったというのは、奇跡だと言っていいだろう。
しかし、この奇跡が起こらなければ、二つの関係性がうまくいくということはなかったかも知れない。
そういう意味で、
「ありえないほど、限りなくゼロに近い確率が成立したことで、政府の思いのままになったといえるのは、皮肉なことであろうか?」
実際には、政府の思いのままになるというのは、ここの国民にとっては、決していいことではない。
政府が嫌いだというわけではないが、応援したくなるほどの政府でもない。どちらかというと、自分たちの生活を最低限保証してくれればそれでよかったのに、今回はうまくいったからと言って、やつらの製作には賛成できない。
そもそも、今回は、偶然、いや、国民性の問題が解決できたことで、奇跡が起こったのだから、政府の手柄でも何でもない。むしろ、可能性がゼロに近かったものを国民に押し付けたというのは、明らかに罪だったのだ。
うまくいったからよかったものの、政府と国民が一触即発になっていた可能性は、かなりの確率であったはずなのだ。
それを思うと、うまくいったことが、
「国民の手柄だと、政府に認めさせたいくらいだ。まさか、無料と協力金だけという、金で解決されてしまっていいのだろうか?」
と考えてしまい、
「失敗するのも困るが、成功によって、政府の手柄になってしまうのは、実に癪なことである」
と考えてしまう。
ただ、それ以降、国民が政府に対して信用しなくなったのは事実で、この状態が今後どのような歴史を作っていくのか、それが問題なのではないだろうか?
そんな国民と奴隷との関係は、政府に対しての不満をよそに、どんどん近づいていくのだった。
そのうちに、奴隷と支配者の関係が、国家が考えている思惑とは完全に違ってきていた。
国家の考えていることとしては、
「国民の中に入れることで、未開人の中に、文明人に対しては、支配階級の支配する側としての人間たちが存在する」
ということを思い知らせて、自分たちが支配され、こき使われるということへの感覚をマヒさせようというのが一番の狙いだった。
作品名:「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」 作家名:森本晃次