ご都合主義な犯罪
少なくとも、向こうの旦那さんと自分の母親は知らなかった。普通の人には、あまりなじみのないことなのかも知れない。
「それにしても、お前、よくモスキート音などという言葉を知っていたな?」
と、隣の旦那さんが、感心したように奥さんに話していた。
「ええ、意外と、最近の若い奥さん同士というのは、結構、こういうマニアックな話もするようで、話を聞いているだけで、勉強になることもあるのよ」
と言っている。
「そうなんだ、俺なんか、会社の男子社員とばかり一緒にいるので、話すことは決まってくるから、時々嫌になるくらいだ」
と、隣の旦那さんはいったが、旦那さんとすれば、会社の男子社員と飲んだりした時は、上司や会社への愚痴になったり、女の話になったり、それくらいしかないだろう。
こういう高尚な話をするようなことはなく、お酒自体、おいしいものなのかどうなのか、想像もつかない。
「もし、その音がモスキート音だったとして、誰が何の目的で、そんな音を出しているんでしょうね?」
と隣の奥さんはそう言った。
「さあ、それは分からないですね。何かの実験なのか、それとも、何か音を出すことに目的があるのか」
と、漱石がいうと、
「そうですね、もし、何か目的があるとすれば、あまりいい予感はしないんじゃないですかね?」
と、りえは言った。
「それは、私も思います。でも、今ここで変に騒がない方がいいんじゃないですか?」
と隣の奥さんが言い出した。
「どうしてですか?」
と、漱石が聞き返すと、
「ハッキリとは分からないけど、余計な詮索をして、誰かを刺激するのは怖いような気はするんです」
という奥さんに、
「でも、そちらが相談してきたんじゃないですか?」
とりえが聞くと。
「それはそうなんですが、音の正体が想像もつかなかったので、こちらが何か自然な形で出されているものだったら、分かりやすいと思って聞いたんですが、そうではなく、どこの誰かがmどんな目的をもって、モスキート音を出しているのか分からないと思いと、急に怖くなってきたんですよ」
と言って、実際に、震えているように見えるくらいだった。
声を細々としていて、声に出すことさえ、怖がっているかのようだった。
「そうですね。奥さんの気持ちもわかりますが、ここはもう少し様子を見てみることにしましょうか?」
と、りえがいうと、皆ハッキリした反応をせず、
「それしかないだろう」
という感覚にとらわれるのであった。
その日は、とりあえず解散になった。
しかし、りえと、漱石の気持ちはどこか晴れないでいた。相談に来た隣の夫婦もそうだろう。
りえは、真剣、理由はハッキリとしないが、何をどうしていいのか気になっていた。分からないということが、一番の恐怖であり、正体がつかめないのが、気持ち悪いのだった。
漱石の方では、何となくであるが、自分の中で考えがあった。その分、母親に比べて、少しは足元が見えているだけ、マシだといえるのではないだろうか。
りえの場合は、まるで、
「底なし沼に嵌りこんだみたいだ」
という感覚があった。
底なし沼というのは、本当に底がないなどというのは理論的にありえないことだが、
「一度嵌ってしまうと、抜けることができない」
ということでの、
「底なし」
であった。
当然身体が絡みつくように沈んでいるのだから、足元が見えるはずもない。そんな状態でまわりを見ようとしても、自分が嵌っていくのが分かるというだけで、どうすることもできない状況を思い知るだけだったのだ。
だが漱石の場合は、どこまで信憑性があるのかも分からないが、まったく何も頭に浮かんでいない、りえや、隣の夫婦に比べれば、想像がつくというものである。
漱石が考えているのは、
「これは何かの実験ではないか?」
ということであった。
どこか、この住宅街の中で、それも、このごく近くのどこかの家に、大学教授の家でもあって、そこで、何か音に対してのものなのか、モスキートの効果を年齢で調べるためだったのか、
「どの年齢から聞こえなくなるかの調査」
をしていたのかも知れない。
それには夜ともなると閑散とする地区が一番よく、昼間は少しは人の通りがあるようなところで、自然とモスキート音を出すことで、音に対しての反応が見れるからである。
「音が聞こえたとしても、口に出さないパターン、本当に聞こえないパターン、聞こえた時に、いかに反応するのか、自分を中心に考える人、まわりを中心に考える人、パターンは様々ではないか?」
と考えていた、
「自分が最初に感じたとすれば。黙って研究をするかも知れない。しかも、他の人には感じたことは錯覚だなどと言って、相手を疑心暗鬼にさせないようにして、そこから自然な思考を取り出す」
ということである。
もし、まわりを中心にするのだったら、自分の好き嫌いで決めるだろうか? やはり、サンプルとして取りやすい人にするだろうか?
まず、実験だとして、何の実験なのだろう? 聞こえた人の反応なのか、聞こえない人がどれほどいるかということなのか?
何か距離とも関係があるかも知れない。
距離と音の大きさ、そして、それにまわりの環境がいかに左右するかということで、その実験が与える科学的根拠が、いかに実験者にとっての利益を生むのかである。
お金が目的なのか、名誉欲なのか、それとも、名声によって得られる信用が大切なのだろうか。
名声によって得られる信用であれば、さらにそこから、何か結びつくものがあって、実験効果を、金銭であったり、名誉だけで片付けると、そこで終わってしまう。
だが、今はそのどれなのかということよりも、モスキート音であったとすれば、その音源すらつかめていないのだ、
「ひょっとすると、音源の正体がつかめれば、この状態の全容がみえてくるかも知れない」
と考える。
悪戯に時間だけが過ぎていくような気がする。数日経ったが、モスキート音は、その日だけのことであり、それ以外の日には感じなかった。
隣の夫婦はどうなのだろう? 気になって相談に来た割には、あっさりと帰って行ったのだった。
しかし、実験だとすると、その目的は何であろうか?
このあたりは閑静な住宅街ではあるが、昼間はそれなりに車の交通量もあったり、人通りも少なくはない、深夜であれば、確かに静かだが、近くにはコンビニもあり、
「完全に眠ってしまっている」
ということはないだろう。
特に深夜のコンビニやファミレスなどで、二十四時間経営をしているところは、いつも、若い連中でタムロしている。
ネオンサインも赤々とついていて、静寂と書いて、しじまと読むが、まさにそんな時間帯は存在しないといってもいいかも知れない。
しかも、このあたりは、犬を飼っているところも多い、阿久津家のアムロは、そんなに吠えることはないが、番犬などとして飼っている犬は、時々吠えたりしている。
それも、番犬として吠えているだけなので、うるさいという感覚ではない。慣れっこになっているというべきか、それだけに、普段の鳴き方を分かっているので、少しでも違った泣き方をすれば、それが警鐘になるのだ。