ご都合主義な犯罪
「アムロが表に向かって吠えているというのは感じたけど、僕の感覚から言って、別に不審者がいるのでそれで吠えているという感じではなかったんだ。どちらかというと、誰かを探しているかのような声が聞こえたので、必要以上に、騒ぎ立てることはないと思って、今まで誰にも言わなかったんだ。でも、アムロがその音に対して吠えているとすれば、理屈には合う気がする。でも、アムロのその正体が分かっているという感じはしないんじゃないかって思うんだ」
と、漱石は言った。
漱石は、アムロの寿命がそんなに長くないということは分かっていた。
散歩に連れていっても、今までは引っ張られるくらいの大きな力だったのに、今では、歩くのも億劫なくらいになっていた。
「相当弱っているんだな」
と、漱石は感じていた。
漱石が今は高校生で、年齢が十六歳になっている。
アムロが家に来たのは、まだ漱石が物心がついていなかったという頃だったので、まだ、三、四歳くらいの頃だっただろうから、もう十年以上経っていることになる。
そうなると、人間でいえば、十分に老人ではないだろうか。自分の胴体と同じくらいの顔の大きさだと思っていて、
「早く、アムロに追いつきたい」
と子供心に思っていた漱石は、すでに自分がアムロを身体の面で追い越していることに気づいていたのだ。
「十三歳を超えると、さすがに犬も寿命が近づいてくるわね」
と、りえが以前言っていたが、漱石とすれば、
「一緒に育ってきたんだ」
という思いがあるだけに、
「年を取った」
などと言われると、分かってはいたことであったが、寂しさがこみあげてくる。
元々、ここ二年前くらいから、ずっと身体を丸めて横になっていることが多くなったアムロは、漱石が小学生の頃などは、表から帰ってくると、飛びついてきて、顔をどんどん舐めてくるものであった。
だが、中学に入った頃から、アムロの動きが、どんどんと身体が重たくなったかのような状況になり、立ち上がるのも、下を向いてから、力を入れているというような、勢いをつけないと、起きれないというほどになっていた。
明らかに、
「年を取ってきたんだ」
ということが分かってきていたのだが、どうすればいいのか、様子を見るしかなかったのだ。
とはいえ、年を取ってきただけに、おかしなことがあれば、余計に気づくはずだ、すくなくとも、人間が感じるくらいの異変であれば、感づいてもいいはずだ。
それなのに、気づかないということは、
「人間側の錯覚なのか?」
あるいは、
「それだけ、アムロが年を取って、衰えてしまった」
ということなのかであろう。
前者ということは考えにくい、隣の風だけでなく、漱石までも、おかしな感覚を持っていたという。
しかし、阿久津家の親二人と、犬のアムロには、気づいていないということなのだろう。
もっとも、アムロはあくまでも、人間が見た雰囲気から察したことなので、何とも言え杯が、分かっていることとしては、若い連中には聞こえて、年配には聞こえないということであろうか?
漱石は、そのことを考えていると、ふと何かに気づいたように、口を挟んだ。
「あの時の不快な音なんだけど、何か、蚊が飛んでいるような鬱陶しいような音だったと思ったんだけど、どうでした?」
と、漱石は、隣の夫婦に聞いた。
それを聞いた二人も、
「ああ、そうそう、どのような不快な音か、すぐには思い出せなかったけど、けだるさを感じると思っていたので、言われてみれば、夏のあのけだるい時によく聞いた。蚊の飛んでいるようなあの嫌な音だったように思うんだけど、どうだろう?」
と、旦那が代表してそういうと、奥さんも、うんうんと、納得しながら聞いていた。
ここでも、三人の意見は一致していた。
それを聞いて、漱石はニッコリと笑うと、
「どうしてそういう音が聞こえたのかということの根本的な解決にはなっていないけど、どうやら、音の正体の輪郭がつかめた気がするんだ」
と言った。
「どういうことなの?」
と、りえが聞くと、母親と、相手の旦那の方はポカンとしていたが、相手の奥さんが口を開いた。
「ああ、そういうことね。だから、私たち夫婦と、漱石さんには聞こえて、こちらのご夫婦や、アムロ君には聞こえなかったというわけね」
と奥さんが言った。
彼女もイヌとはいえ、敬意を表してアムロに君付けをしたのは、それだけ、彼女もイヌ好きだということなのだろう。
「奥さんも分かったようですね?」
と聞くと、
「ええ、蚊の飛ぶ音だということを聞いて、分かったんですよ。いわゆる、モスキート音ということですね?」
と奥さんがいうので、漱石が、
「ええ、そういうことです。これだと音の現象についての理屈は合いますよね?」
というと、
「ええ、そうですね」
と、二人で納得したようだった。
「モスキート音って何なの?」
と聞かれた漱石は、皆を一度見渡した。
母親は前のめりになって聞いていたが、相手の旦那さんは、興味がなさそうにしていた。理屈は何であれ、問題解決さえすれば、それでいいのだ。
そして、相手の奥さんは、本当は自分が説明したいと思っているかも知れないと感じながら、その役目を自分が負うということで、少し自慢げな気持ちになっていた漱石だったのだ。
漱石とすれば、、
「ここが独壇場だ」
と思っている。
普段から、自分が主役になりたいと思いながら、いつも、陰に回っているのは、表に出ることが基本的に好きではないからだと思うようになったが、実はそうではなく、
「主役というのが、どういうものなのか、分かっていなかったからに違いない」
と感じたのだ。
周りを見渡しながら、漱石は得意げになっていた。
「モスキート音というのは、モスキートというのが、蚊が発する不快な翅の音という意味があるんですが、その音のことなんです。そして、この音は、結構、高い宗派の音になるらしいんですが、これは、あるおっていの年齢になると聞こえなくなるという特徴を持っているんです。それだけ高周波だということなんでしょうね。人間は年を取るほど、高周波を聴き取れなくなると言いますからね」
と、漱石は言った。
「なるほど、だから、電子音のような音で、不快に感じられたのかな?」
と、相手の旦那さんが、そういうと、
「ええ、そうじゃないかと思うんですよ」
と、漱石が言った。
「だから、若い我々には聞き取れて、親世代の人には聞き取れなかったということでしょうか? じゃあ、ワンちゃんが反応しなかったというのは?」
と今度は奥さんが聞いてきた。
「犬の場合は、十歳を超えると、人間でいう老人になるんです。この子は、もう十二歳を超えることになるので、人間でいえば、後期高齢と言ってもいいくらいじゃないかと思うんですよ。だから、聞こえなかったといってもいいと思います」
この奥さんは、モスキート音については知っていたが、犬に関しては、さほど詳しくはないようだ。
それにしても、モスキート音というのは、たまたま漱石は知っていたが、他の人が知っているという確率はどれくらいのものなのだろうか?
奥さんは、物知りだったということなのだろうか?