ご都合主義な犯罪
バルチック艦隊が極東に向かうには、まず、ヨーロッパの海域から、ドーバー海峡を抜け、スペインを回りこんで、アフリカまわりで、インドから、東南アジア、そして日本へと近づくのだが、その長い航海では、当然のことながら、水や食料の補給が大切になってくる。
無事に供給できたとしても、ただでさえ長い航海なので、疲労はかなりのもののはずなのに、この航路には、英国領であったり、英国の影響の大きなところが立ち塞がっている。そんなところを航海していくわけだから、水や食料の補給がまともにできるはずもなく、日本近海に現れた時には、すでにひどい状態だったに違いない。それだけで勝負はついていたといってもいいだろう。日本海海戦と呼ばれる戦闘は、半日で日本の勝利が決した。まるで関ヶ原のような短さであった。
陸軍も海軍も圧倒的な勝利を戦闘では見せたが、もうロシアも日本も戦闘を続けていけるだけの体力はなかった。日本の国家予算の数年分を使い果たした状態で、戦力もかなりの被害を出したために、ほぼ瀕死の状態だった。
しかし、ロシアの方でも、時刻で革命の火がくすぶっているような状態だった。戦争などしている状況ではなかったのだ。
そこで、両国はアメリカの仲介によって、和平条約を結ぶことにした。
日本は、戦勝国ということで、領土的なものは手に入れることができたが、肝心の戦争賠償金を手に入れることができなかった。それを不満として戦争継続できるわけもないし、仕方なく、外務大臣の小村寿太郎は、戦争賠償金をなしの状態で、和平を成立させた。それを知った国民は、
「これだけの被害を出して、賠償金がないというのか?」
ということで、暴動を起こしたのだ。
もちろん、民衆は日本が戦争継続などできないほど疲弊しているとは思っていなかったのだろう。
だが、実際にはのっぴきならない状態ではあったが、日本の面目が守られる和平交渉だったはずなのに、国民の怒りは収まらない、その暴動が、あの有名な、
「日比谷公園の焼き討ち事件」
だったのだ。
この時、警察にも民衆を抑えるのが難しくなり、大日本憲法発布以降、初めての戒厳令が出されたというわけであった、
これが明治における最初の戒厳令だったのだ。
では、大正における戒厳令とは何だったのだろうか?
大正時代というと、十五年ほどしかなかったが、結構いろいろあった時代だった。
第一次世界大戦や、大正デモクラシー、中華民国に対しての、対華二十一か条条約、そして、とどめとなったのが、未曽有の大災害となった、
「関東大震災」
であった。
伊豆半島沖を震源地とする地震は、帝都や横浜などを焼野原とし、その混乱に乗じて、朝鮮人虐殺などという事件もあった。
完全に治安維持ができる状況ではないので、戒厳令が敷かれ、いわゆる災害においての、最初で最後の戒厳令となったのだ。もし、今の日本に戒厳令があったら、関東大震災以来の、
「災害による戒厳令の発行」
ということになっただろう。
ただ、関東大震災は、完全に天災であったが、
「今回の災害は、果たして天才であったのか?」
ということである。
ある国家による人災ということもなかったのかという疑問も付きまとう。
しかし、日本にも、他に災害による戒厳令を必要とするような災害はたくさんあった。
阪神大震災であったり、東日本大震災など、治安が崩壊した状態だったではないか。ただ、
「戒厳令というのは、首都を中心としたものでないといけない」
という条文があったのかどうかまでは分からない。しかし、たぶん戒厳令が出されるべき事由であったということは疑いようのない事実であろう。
そうなると、今の日本は、災害になると自衛隊の派遣要請というのは、災害のあった地方自治体の長がまずは、政府に依頼し、そこから内閣総理大臣が派遣を検討するということになる。
阪神大震災の時に大きな問題となったのは、まず自治体の長が、政府に派遣要請を行わなかったことから、被害がひどくなってしまった。このあたりに大きな問題もあっただろう。
要するに危機管理において、相当な甘さが見られたということである。
「日本には有事はない」
という神話のようなものを信じていたからではないだろうか。
それまでにも近々にバブルが弾けたことで、
「銀行は絶対に潰れない」
という神話があったのだが、いとも簡単に銀行などの金融機関から破綻していったのを見ているはずなのだから、
「神話を信じない」
というのであれば、
「危機管理を甘くみていた」
と言われても、一切の言い訳は通用しないといえるのではないだろうか。
それが、大正時代に起こった、
「天災による戒厳令」
だったのだ。
さて、昭和においての戒厳令であるが、この時代には、昭和の初期は、
「激動の時代だ」
といってもいいだろう。
前述の関東大震災の復興もまだ癒えない中で、巻き起こった。世界大恐慌という波である。
日本では東北地方の凶作とも絡んで、
「娘を売らないと、明日の食事も食べられない」
とまで言われたほどの大恐慌が襲ってきたのだ。
日本は、満州に権益を作るためと、居留民保護という名目から、満州事変へと突入した。しかも、それを諸外国から非難され、国際連盟を脱退することで、世界的に孤立してきたのだ。
ただ、これはあくまでも歴史の流れという意味で、それに触発されるかのような、大事件が帝都で発生した。それが昭和における戒厳令発行となった、
「二・二六事件」
であった。
これが、いわゆる
「クーデターによる、国家の治安が維持できないため」
という理由であった。
もっとも、この事件は、
「陸軍の青年将校たちが、政府の一部に巣くう、特権階級の連中に昭和維新としてのクーデターを起こした」
という話になっていることが多いが、実際には、陸軍内部の、
「派閥争い」
というだけのことだった。
「統制派」
と呼ばれる派閥と、
「皇道派」
と呼ばれる派閥争いで、統制派が力を握ったために、自分たちの立場が悪くなったら困るというころで、起こしたクーデターだったのだ。
「自分たちの保身のために、国家の、つまりは、天皇陛下の軍隊を動かした」
というのが、本当のことではないだろうか。
もし本当であれば、これは完全な憲法違反である。
同時の軍隊は、天皇陛下の統帥権の元、天皇陛下の命令なしに、軍を勝手に動かしてはいけないということになっている。今の日本でも、総理大臣の命令なしに、自衛隊の幕僚が勝手に自衛隊員に出動命令を出し、さらに、他国を攻撃したのと同じくらいの罪だといってもいい。
最終的に投降した青年将校を、
「弁護人なし、非公開で全員銃殺刑」
としたとしても、無理もないことだっただろう。
戒厳令はその時に出されたのだった。今の時代で、もしクーデターがあり、戒厳令の問題が出たとして、あったとすれば、オウム真理教による、
「地下鉄サリン事件」がそれにあたるのではないだろうか。完全に国家転覆を狙ったクーデターだからである」
と言えるだろう、
これが、大日本帝国における、三回の戒厳令である。