ご都合主義な犯罪
「自信を持てば持つほど緊張感が深まってきて、緊張感が深まれば、今度は、次第に不安になってくる」
という感覚だったからだ。
「AがBであり、BがCであれば、AはCである」
という三段論法とは違うものだった。
三段論法が通用しないということは、矛盾ということである。元々この理論も、三段論法からきているのだ。
それを考えると、三段論法という考え方は、ある意味、万能な考え方だといってもいいだろう。
それが通用しない矛盾した精神状態に陥ったことで、自分の自信も、
「実は不安の裏返しなのではないか?」
と感じるようになったのだ。
そして、時間がどんどん経過していくうちに、今度は自信よりも不安の方が強くなっていく。その時、
「最初は自信の方が不安よりも強かったんだよな?」
と、今さらながらについさっきの自分の心境を思い出そうとしていたのだった。
自信は、最後には、ほとんどなくなったはずだと思うのに、
「それでも入賞はするだろう」
という、自信めいたものが残っていた。
どこからそんな根拠もない自信が生まれてくるというのか。それを考えると、
「とにかく早く結果を知りたい」
という思いがこみあげてきて。それが焦りだということにまったく気づいていなかったのだ。
「いよいよ、審査の発表です。四位から下をまず発表していきます」
と言って、十位を超えても自分の名前を呼ばれることはなかった。
二十人の中の半分を過ぎたところで名前を呼ばれないということは、
「やっぱり、入賞したんだ」
と、このあたりになると、もう下位で自分の名前が呼ばれることはないと思っていたが。
しかし、何と、
「十九位、一年二組、阿久津漱石君」
と呼ばれた時は、まったく予期もしておらず、
「早く、上位の順番にならないか?」
ということだけを考えていただけに、ショック以前の問題だった。
さらに、その後、入賞者の発表の時、自分の名前が呼ばれるはずはないと分かっているのに、さっきまで心構えをしていたその気持ちが、そのまま残っていて、無駄な一喜一憂をしている自分を恥ずかしいと思っていたのだった。
「そんな、酷い」
と思ったが、それが現実だったのだ。
「一体何が悪いというのだろう?」
自分がとんだ勘違い野郎だということを思い知らされた時、まず考えたのは、
「何が一体悪かったというのか、ハッキリとした答えを聞きたいものだ」
ということであった。
もちろん、審査委員の先生が教えてくれるはずもない。原稿を添削してくれた先生も、何も言おうとしない。
表彰式の時に、入選者の評価については話していたが、それ以外の人の内容については触れていない。これは学内弁論大会に限ったことではなく、基本的にコンクールというのは、入選者以外の評価はまったくしない。たぶん、その内容によって、ショックを受ける人もいるということなのだろうが、平等という意味においても、きっとそうなんだろう。下手に話して、自信を無くしてしまうようであれば、せっかくの教育の一環として行っていることの意義が失われてしまうというのは、学校側も本意ではないだろう。
それを思うと、漱石は、
「なぜなんだ?」
と思いながら、
「どこかに、完全な勘違いが秘められているに違いない」
とあくまでも、自分の勘違いが引き起こした結果であると思いたいのだった。
光と音の関係
さすがに、
「納得できない」
という思いと、
「どこが、悪かったんだ?」
という思いが交差して、すでに反省をするという意識はないのだが、
「反省しなければいけない」
ということを理由に、
「どうしてこの順位なのか?」
ということを知らなければならないという言い訳をしようと考えていた。
ただ、本当は言い訳ではないのかも知れないが、結果として言い訳になるのであれば、それは言い訳でしかないのだろう。
添削をしてくれた先生のところに行って、
「納得できないんですけど」
と、ストレートに気持ちをぶつけてみた。
この先生であれば、下手に言い訳をオブラートに包もうとしようものなら、すぐにその気持ちを見透かされてしまって、心象が悪くなり、相手を却って怒らせる結果になるだろうと思うのだった。
だからこそ、ストレートに聞いた方が、ごまかそうとしているように見えるよりもよほどいいと思ったのだ。
その思いが通じたのか。
「そうか、お前の気持ちとしてはそうなんだろうな? 自分では一生懸命にやって、ちゃんとできたと思っているんだろう。だから納得がいなかいというのも分かるし、今後のことを考えても、お前は知っておく必要があるのかも知れないな。正直に気持ちを表したということも敬意を表するに値するものだからな」
と先生はいうのだった。
だが、先生はそれ以上に、
「教育者なのだろう」
と考えた。
この時も、答えをいうわけではなく。
「それじゃあ、たぶん、放送部には残っていると思うが、まずは、そこでお前の演台のシーンを見せてもらえ、そこで必ず大なり小なり、自分で感じることがあるはずだ。そのうえで、まだ納得がいかないのなら、またこの俺を訪ねてくればいい」
というのだった。
「はい、分かりました」
と先生が何を言いたいのかということは分からなかったが、あの先生が自分から言い出すことなのだから、何か意味があるはずだ。
そう思って、漱石は放送部の友達に話をして、
「というわけで、俺の弁論シーンを見てみたいんだ。先生から許可を受けているのは、今言った話で分かってくれると思うんだけどな」
というと、
「ああ、確かに先生から、お前が来たら、見せてやってくれと言われたんだ。だから見せてやるよ」
というので、
「ああ、頼むよ。ところでお前はどうして先生がこの画像を見ろと言ったのか、分かるのかい?」
と聞くと、
「ああ、何となく分かる気がする。俺たち放送部だって、自分の放送をテープで何度も聞き直したりしているんだ。何度も何度も聞き直しているうちに、何が悪いのかというのが分かってくるものなのさ。だけどな、だからと言って、漠然と見ただけではダメなんだ。焦点を絞ってみないといけないんだ。下手に漠然と見るくらいなら、見ない方がマシだと俺は思うくらいだぞ」
という。
その言葉も、先生が言いたいことが分からないように、話の内容は分かったとしても、なぜそんなことをいうのかということは分からない。
「これだったら、最初から分かっていないのと同じではないか」
というのと同じだった。
しかし、
「自分は、別に放送部というわけではなく、プロではないんだ」
と思っていると、先生がなぜ、自分にこれを見るように勧めたのか分からなかった。
だが、友達が用意してくれたVTRを見ると、それが本当に一目瞭然であることが分かった。
「なぜ、そんなに簡単に分かったかって?」
それは、自分の声の第一声を聞いた瞬間、自分の中で衝撃が走ったからだった。
「何だ、これ? まさか、変な編集しているわけじゃないよな?」
と思わず、イチャもんをつけてしまった。