無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~
「天皇猊下に命を捧げるのが、日本人だ」
というような教育を受け、戦争で死ぬということを怖いものだとは思わないような教育を受けてきているのだった。
だから、最初から覚悟はできているという人がたくさんいたことで、勇敢だったともいえる。
人間を洗脳するのだから、それだけの締め付けが政府や軍になければいけないだろう。
法律もそのような形のものであり、憲法で、主権は天皇、国民はその下だということになっているので、今のような、基本的人権であったり、法の下の平等などという言葉はなかったのだ。
今の日本国と、大日本帝国の一番の違いというのは、
「愛国心」
ではないだろうか。
愛国心がそのまま、
「天皇陛下のために」
という発想になるのだ。
だから、政治家も軍人も、基本的に愛国心から動いている。
「国を憂うる気持ちは誰もが同じ」
と言って、クーデターを起こした人間を、処断はするが、処刑してしまった後は、恨みも消えて、彼らに敬意を表することもあるだろうが、実際には、派閥や洗脳によるもののせいで、
「死んでいった連中を悪者にして、責任をすべて彼らに押し付ける」
ということが横行したのもこの時代だったからなのかも知れない。
だから、日本人は、他の国から見れば、信じられないような行動や作戦が立てられたりした。
「虜囚の辱めを受けず」
ということで、先陣訓というものがあり、
「捕虜になるくらいなら、その場で自らの命を断つ」
ということで、手榴弾や青酸カリが、自殺のために配られたともいうではないか。
さらに、全滅を待つだけの状態で、投降をするわけにもいかず、集団自決という意味合いからの、
「玉砕攻撃」
というものがあった。
「一人でも多くの敵を殺して死ぬ」
というものだったのだろうが、実際に玉砕ともなると、ほとんどの人に武器は渡るわけもなく、ただ、弾丸や爆撃に晒されるところを、皆で歩いて敵兵に進んでいくということであった。
「自分から死ななくとも、相手が殺してくれる」
ということなのだろうが、相手からすればこれほど怖いものはない。
かわいそうだなどと思うわけにはいかない。こちらが殺さなければ、こちらが殺されるということになるからだ。
それにしても、玉砕にしても、カミカゼにしても、死を恐れないという感覚は、米軍などとは違うだろう。
「我々は、軍隊に志願した時点で、国のために、命は捧げると思って行動してきたが、あのような玉砕や、カミカゼのようなことは信じられない」
と考えることだろう。
さらに、
「俺たちは、勝つための戦争はするが、負けると分かっている戦争に出ていくことはできない」
と考える兵隊も、若干名いたことだろう。
戦争映画などでは、そういうシーンもあり、ただ、実際の戦場や、大日本帝国で教育と受けた人間が、今のような考えに至るというのは、なかなか難しいことだろう。
本当の怖がりであれば、気が狂ってしまいそうな状態ではないか。実際に、戦場で気がふれた人もいたことだろう。
今の人間から見れば、すべてが異常な時代。それを今の人間は知ろうともしない。
「あの時代が異常だったんだ」
ということは知っていても、何がどう異常だったのかということまで知らないだろう。
知っているとしても、学校の教育などで、押し付けられた知識だけで、
「勉強や、知識を得るということは、自分から動かないと、得られるものではない」
と思う。
そこに、プロパガンダがあった時代は洗脳されることになるのだろうが、今の時代は、自由という発想があり、
「自由以外は、悪なんだ」
と感じるかも知れない。
感じるというよりも、感じさせられているということに気づかないのだ。
昔の帝国時代の方が、洗脳が激しいと思っているのだろうが、実際には違うのではないだろうか。
組織的に洗脳が横行していた時代は、
「気持ちを一つにするための締め付け」
だったのだが、今の時代の洗脳は、
「過去に目を瞑って、その勢いで今の時代に隠ぺいできることは、隠しきってしまおう」
と考えたのだろう。
「自由という言葉を巧みに使い、その言葉をプロパガンダにして、国民を洗脳することが、隠ぺいに繋がる」
ということを、今の政治家は分かっているのだろう。
だが、隠ぺいしようとしている人間だけが悪いわけではない。むしろ、隠ぺいしようとしている方も、過去の歴史を勉強し、
「どうすれば、自分たちの思う通りになるというのか?」
ということを考えているのだ。
それに比べて、過去の歴史を勉強しようともしない連中が、
「自由なんだ」
と叫んだところで、
「どうして自由なのか? 自由というものがどういうものなのか? さらに、自由であることが自分にどのようなメリットがあるのか?」
ということを考えようともしない。
ちゃんとした知識がないから、マスゴミと呼ばれる連中に利用され、さらに、そのマスゴミを政治家が利用しようとする。きっと、昔の人たちから今の時代を見れば、
「なんて、バカな連中ばかりなんだ」
と思うことだろう。
勉強しようと思えばいくらでもできる環境にありながら、勉強をしようとも思わない。何をすればいいのかが分かっていないから、自由という隠れ蓑に隠れて、何もしようともしない。
そんな連中だから、政治家はいくらでも甘い汁を吸えるのであり、その事実すら知らず、世間が騒ぎ出すと、どうして騒いでいるのかという理由も分からずに、我遅れじとばかりに、騒ぎ立てる。
これが二番煎じということで、どれほど情けないことなのかということを分かっていないのだろう。
そうなってくれば、
「恥も外聞もない」
と言って過言ではないに違いない。
そんな時代を生きている自分も、死ぬということを意識せずに暮らしてきた。
家族の死、祖父や祖母の死にかかわった時は、まだ小学生だったので、死というものがどういうものなのかということをハッキリと感じることはなかった。
それを考えると、
「人の死と向き合うというのは、どういうことなのだろう?」
と考えるようになったのが、ハッキリといつだったのか、覚えているわけではない。
きっと、戦争映画などを見ている時ではなかったか。戦争のアクションシーンを初めて見た時、
「恰好いい」
というよりも、
「どうしてあんなに人がまるで虫けらのようにバタバタを死んでいくんだ?」
という感覚だった。
マンガなどでは見たことがあったが、実写になり、音が入ったり、声が出たりするシーンには、適わない。
いかに、戦争をリアルに描くかという問題よりも、
「いかに、放送倫理に引っかからないように、リアルさを出すか?」
ということが問題になってくる。
人によっては、その感覚が、リアルさに欠けるのではないかと思うのだろうが、逆にこの葛藤が、リアルさに近づけるものではないかと思うのであった。
だが、実際に戦場を知っている人は、日本では、もう皆無に近い。
作品名:無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~ 作家名:森本晃次