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無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~

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「探求心が底辺にあり、そこから経験というものを上乗せしていくことで、どんどんと容量が増えてくる。探求心というものは、最初から最後まで同じレベル、つまり、最大であるとすれば、きれいな形の箱が出来上がる。それが、自分の限界であり、能力だとするならば、自分の力は、さらに前向きになっていくことだろう」
 と考え、
「前向きな心こそ、限界を超えることができるかも知れない新境地に至るものではないか?」
 と考えるのであった。
 博士にとって、これから先の研究が、正しいのか間違っているのか、今はそのことを考える必要はないと思った。
 なぜなら、最終的に完成するまでに、その答えは勝手に見つかるものだと思っているからで、それが見つからなければ、その研究はまだまだ先があるということで、研究する価値は十分にあることだと思っている。
 博士には、
「フレーム問題と、ロボット工学三原則」
 という大きな壁がすること、そして、この二つの問題は、それぞれにけん制しあって、その先に見えてくるものを、いかに解決していくべきなのかを考えるのであった。
「量産できるサイボーグ」
 というものを作ろうとしているところは、世界の各地にたくさんあるだろう。
 その中で、自分たちが目指している研究が、
「他と同じなのかも知れない」
 と少しでも考えたとすれば、それは、二番煎じであり、パイオニアではないに違いない。
 そのことは、博士には分かっている。
「二番煎じ」
 というものを極端に嫌い、自分というものが、いかに大事だということを研究するのが自分だと思っているからだ、
「人と同じでは嫌だ」
 ということは、博士が、これまで生きてきた中で、一番長く持ち続けている信念なのではないだろうか。

                 死ぬということ

 人と同じでは嫌な考えは、子供の頃からの基本的な考えだった。
 おとなしかったくせに、
「いつも、目立ちたいと思っていたな」
 と今では笑い話になってしまいそうだが、その気持ちは今も変わっていない。
 むしろ、
「自分の根本的な考えは、ここから始まったのだ」
 と言っていいところまで来ていた。
 目立ちたいと思っているその気持ちが、そのうちに、
「皆と同じことをしていては目立たない。自分から宣伝でもしない限り、周りは分かってくれないだろう。だから、態度で示すしかないんだ」
 と思っていた。
 まず、根底にあるのは、
「まわりの人は、自分のことをそれほど真剣には見ていない」
 ということだった。
 これは自分だけに限ったことではなく、しょせん、
「人は人」
 なのだ。
 自分にかかわりのあることでもなければ、誰も何も気にしない。
 かかわりがあったとしても、影響が微々たるものだと思えば、気にしても無駄だということを、無意識に、いや、本能が自分にそう言い聞かせるのだろう。
 それが、何かからの逃げであるということに気が付かない。
 さらに、自分が何をしている時が楽しいかということに、気づいたのは、
「人が驚くようなことをした時の快感が一番楽しいし、興奮する」
 というものであった。
 それが、いつの間にか、発明であったり、発見であったりするわけだが、そこにはいつも、何かの前兆のようなものがあった。
 何かを思いついた時というのは、
「最初から自分の中にあったものが、表に出てきたというだけのことなんだ」
 という思いであったり、
「気づいていないかったが、あと二なって思い出すということがあった時というのが、何かを発明したり、発見する時の呼び水になるのだ」
 ということを感じるのだった。
 それは、自分が人に、
「どうして、そういう発明、発見ができたのか?」
 ということを話している時に浮かんでくるものだった。
 その思いが次に繋がり、それが、継続ということになるのだった。
 つまり、
「次の発明は、前の発明の最後から始まっている」
 と言っても過言ではないのだ。
 そのことをハッキリと感じたのは、いつだっただろうか?
 高校生になった頃には、すでにいろいろな発明らしいことをしていた。まわりが騒ぎ出したのもその頃で、自分はまだまだだと思っていたのに、
「あいつは、意外と天才なんじゃないか?」
 といわれ始めたのだったが、本人はそこまでハッキリと先に進んでいるという感覚があったわけではなかったのだ。
 だが、研究が、継続性のあるものだと気づいた時、
「まわりが騒いでいる理由が分かった気がするな」
 と感じた。
 きっと、まわりの考えていることとは違っているはずのことで、だからこそ、自分だけの発想が生まれていることが分かり、
「自分の成長は、まわりの人の意見や、ざわつきとは関係のないところにあるのだ」
 ということを感じた時、初めて先に進んだ気がした。
 だが、継続は相変わらずで、その間に、ステップが存在しているのかも知れない。
 その継続の先にあるステップが見えてくることで、自分の研究への探求心が強くなり、次第に自分が分かってくるということであろう。
 つまり、
「自分への探求心がそのまま、研究の継続に繋がる」
 ということなのだと分かってきたのだった。
 高校時代は、まわりとさらに距離を置き、一人で孤独を味わっていた。
 孤独というものが、自分の中の何を見つけてくれるのかということを分かっていたような気がするからで、
「孤独が孤高に変わる時が、必ず来る」
 と思っていた。
 孤独というののと孤高の違いが判る時こそ、自分が今まで見えなかったものが見えてきて。その先にある新たなステップが見えてくるのだろう。
 そして、次第に限界というものが見えてくると、その限界に近づくにつれて、どんな困難が待っているか分からないということも感じるようになってきた。
 困難というものが、見えるか見えないかは関係ない。目指すは限界なのだ。
 限界というものは、
「自分で決めるものではない」
 と言われている。
 しかし、それは、限界というものを、いかに意識するかということが重要なわけであって、自分が決めるかどうかではないのだ。
 そこにあるものを認めることが大切なのであって、これまで、
「自分で自分の限界を決めるな?」
 と言われてきたが、それは本来の意味とは違っているのではないかと思うのだった。
 つまり、
「限界を決めるのは自分ではなく、最初からそこにあるものだ」
 と言いたいのを、消えるという言葉が勘違いさせるものではないかということである。
 世の中に限界というものがないわけではない。
 限界というものがあるからこそ、そこに向かって、人間は、
「たゆまぬ努力をする」
 のであって、
「その努力を決して無駄にしたくない」
 と思うことが大切なのだ。
 だから、限界はあって当たり前のことであり、それを知るのも大切なことだ。
「限界を決めるな」
 という言葉を額面通りに受け止めるのは、
「限界を決めることで、逃げになっているということを意識しないで済むのではないか?」
 という考えに基づくものではないだろうか。
 そう思うと、