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無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~

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 アンドロイドは、実にスムーズに動いた。もっとも、少しでもぎこちなかったりタイミングを外せば、ドカンと行くということを頭脳に叩き込んでいた。
 それよりも、自分の性能が数百倍も優れていると覚えさせているので、、スムーズに動くのも当たり前だ。
 ただ、動力はあくまでも、アンドロイドに移植した人間の脳の命令がなければ動かないようになっている。
 つまり、このアンドロイドは、直観のような肝心なところの意識や意思だけ、移植前の人間の脳が働くのだ。それ以降の動きはすべて、ロボットが動いてくれる。それも、人間の脳がコントロール装置のようになって、人間の各臓器を動かしたり、手足を動かすという感覚と同じなのだ。
「すべてをロボットにさせようとするから無理なのであって、最初の一歩だけを人間にさせさえすれば、可能なのだ」
 ということを証明した。
 あとは、その脳をいくつかに分散したり、コピーできれば、量産できると思っている。美山博士の研究はそのあたりまで来ていたのだ。
 単独でのアンドロイド作成は成功した。もちろん、研究に携わった人間しかこのことは知らない。
 まったく裏切りがないとは思っていないが、資料の保管に関しても十分なものであるし、そのために、ボディガードもしっかりとつけている。
 以前、国家プロジェクトの一部を担う仕事をした時、セキュリティや、機密保護のことは結構勉強した。もちろん、いずれ自分が国家機密にも負けないような発明や発見をした時のためを考えてのことだったが、今それが役に立っている。
 そういう意味では、博士は優秀な科学者であるとともに、先見の明のある人だといえるだろう。
 もっとも、それくらいの先見の明がなければ、いろいろな発明発見に至るだけの発想が出てくるはずもないといっても過言ではないだろう。
 その頃はまだ、一介の研究員でしかなかったが、野望という意味では、他の連中よりもあっただろう。他の連中が気にもならないことを気にしてみたり、逆に他の連中が興味津々のことに対して、
「そんなのは、しばらくすれば、自然にどこからか発表されることに違いないんだ。そんな今さらなものを見て何になるというんだ。どうせなら、今のうちに、新たな発見がそこに潜んでいないかというのを見ておいた方がいい。何のために、このプロジェクトに参加したんだ」
 と嘯いていた。
 他の連中は、
「いやいや、先駆者の人たちの行動や、考え方を見習って、これからの自分に役立てる方がいいんじゃないか?」
 と言っていたが、
「それが何になるというんだ? しょせん、人まねじゃないか。自分独自の考え方を持っていれば、今何をしなければいけないかということは、自然と見えてくる。それはその考えに従って行動しているんだ」
 と言っていたのだ。
「それが、ひいては、皆がマネしようとしている。先駆者たちの立ち振る舞いであったり、考え方であることは、分かっていたことだ。逆にそれができないのなら、最初から開発者としての道を歩もうなんて、傲慢でしかないんじゃないか?」
 と思っていた。
 確かにそうである。
 誰にだって、自分のやり方はあるが、結局、同じものを目指して、頂点に立つ人は、それぞれに共通したとろこがあるはずだ。要するに、そのことを理解できるかできないかということが、成功するかしないかの分かれ道だと、博士は若い頃から、そう思っていたのだった。
 だから、博士を慕ってくる人たちは、どこか皆似たところがある。
 それはある程度までに経験と実績を積んだ人でないと分からないことだろう。
 だが、そんな彼らでも、そこまでは誰でも行けるのだ。そこから先に行けるかどうかは、
「持って生まれた考え方という素質」
 によるのではないだろうか。
「天才は生まれながらにして、天才であるが、努力でつかみ取ることのできる才能は、秀才という」
 ということであるが、まさにその通り。もって生まれたものが、最後にはモノをいうのではないかということである。
 博士は、その時の研究を自分のものにしていた。他言はしないが、自分の研究に役立てた。
 これは、別にいけないことではない。逆にそれくらいの意識がないと、
「自分で新しいものを発明などできっこないのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 当時としては、画期的だが、今では当たり前のようになっている研究だ、
「もし、自分が研究するのであれば、何年経っても、自分の研究がいくら誰かにマネされたとしても、色褪せることのないものであってほしい」
 と思っている。
 これは、実際にできるかどうか、自分でも分からないものだ、
「形あるものは滅びる」
 という諸行無常の理があるわけだからである。
 博士はそんな思いを抱きながら、研究を続けた。
 研究室に戻ってからは、その時の経験と思いを一つの武器に研究をしてきた。継続というものがいかに大切であるかということを自分なりに感じながら、最初は自分の思いを、
「自惚れではない」
 と思っていたが、その思いがどんどん謙虚になってくると、
「自分が自信をもつための、糧になるものだ」
 と感じてきた。
 だが、
「自惚れなのかも知れない」
 という疑問を感じるようになると、紆余曲折の考えを抱きながら、結局は、
「自惚れなどではない」
 という結論に至る。
 これは、最初に自惚れではないと感じた時の感覚とはまったく違うもので、一周回って、戻ってきたことである。紆余曲折には、左右両極端な思いが自分の中で形成され、限界ではないと思っていたことが、自分の中での限界になった。
 この限界は自分で作ったものではない。
「自分には限界がないと思っていたのに、限界を後で現実として思い知らされてしまった」
 ということは、往々にしてあるだろう。
「それが自分のこれからの成長のためになる」
 ということの証明であれば、そこから、さらに成長はできるというもので、逆に、
「自分に限界がないと自覚しながら、紆余曲折を繰り返しているうちに、限界というものを自分で見つけたのだ」
 ということであれば、その限界は間違ってはいない。
 その限界を自分の武器にして、目の前のことに立ち向かっていけるということが自分で分かってくると、その先に見えるものは、ハッキリとしてくる。
 この前者との違いは大きなもので、それを見つけるきっかけになった、
「自惚れ」
 というのは、
「イコール自信だ」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 自分の自信というものは、ひょっとすると、限界を自ら見つけることよりも、自覚することの方が難しいのかも知れない。
 つまり、
「自分に自信を持つということは、自分で自分の限界を知るということよりも難しいということではないか」
 と感じるのだった。
 どんなこと、分野からでも、そのことは見つけることができる。博士は、自分の研究からは、経験と探求心が、その気持ちを支えていたのだと思っている。
 探求心という前向きなもの、そして経験がそれを裏付けしてくれる。
 つまり、言い方を変えると、