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無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~

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 生物学的に、ものすごい種類わけがされているだろう。
「○○目○○科○○属」
 などという形である。(もっとたくさんあるのだが、とりあえずこれくらいを示しておく)
 そんな中で、下等生物などという呼ばれる生物がいる。その対比となる明確な言葉はないが、あるとすれば、高等動物ということになるのであろうか。
 元々、下等動物というものの定義としては、
「単細胞で、構造が単純な動物」
 ということにあるのであろう。
 それが、動物界でも、下等、高等と分けることによって、知能の問題が絡んでくるのだろう。
 普通に考えると、昆虫やプランクトンなどは、下等動物であり、高等動物というと、哺乳類、爬虫類、両生類などと思われるようだが、実際にはもっと上の方で区切られていて、
「爬虫類、両生類などは下等動物で、哺乳類は、高等動物だ」
 と言われるようである。
 ここで、考えた下等動物、高等動物の境目というのは、
「人間が見て、リアクションを感じられるものを、高等動物。リアクションを感じられないものを下等動物」
 と定義したに過ぎなかった。
 つまりは、その動物を傷つけたり、殺したりした時に、リアクションが感じられるものであり、人間であれば、悲鳴を挙げたり、武器を向けた時に震えだしたりする行動のことをいう。
 動物であっても、殺した時に、身体が反応して、悲鳴のような叫び声を出したりするものは、高等動物だという考えである。
 それはあくまでも、こちらが示した行動に、相手が反応しているという感情であり、それを見て、
「可愛そうだ」
 という感情が生まれるか生まれないかということだ。
 昆虫などは、リアクションを示さない。殺しても、悲鳴を挙げたりすることはない。せめて、相手を潰そうとして手を出そうとした時に、少しでも逃げようとする反応があるくらいだ。
 しかし、相手が虫であったりすると、どんな反応をしても、
「可愛そうだ」
 とは思わない。
 むしろ、
「気持ち悪い」
 ということで、早く殺してほしいと思うのが、人間の本能ではないだろうか。
 虫に対しては、一切の容赦がないのは人間の感情で、それは、一切殺すことに悪気がないからであろう。
 犬や猫のように、死ぬ時のリアクションを痛いほど感じ、ペットの犬などは死期が近づいた時、寂しさからか、何とも言えないような寂しい声を挙げるという。そんなペットの死は、下手をすると、同じ人間でも、肉親ではない人が死ぬよりもよほどペットが死んだ方が悲しいというのは、ほとんどの人がそうであろう。
 だから、以前ペットを飼っていた人が、もう飼わなくなった理由の多くに、
「ペットは死んじゃうからな。その死に立ち会うというのは、実に悲しいものだ」
 という。
 癒しを犬だけに求めていた人は、その犬が死んでしまうと、しばらくは放心状態になってしまうだろう。まるで、自分の子供が死んでしまったかのように感じて、もう、どうしようもないくらいに落ち込んでしまい、寂しさで感覚がマヒしてしまうくらいになってしまうのではないだろうか。
「もう、次を飼うなんて考えられない」
 というのは、犬というものを相手にしていたわけではなく、自分の身内というよりも、むしろ分身と思えるものが死んでしまった感覚である。それが犬だったというだけのことであるが、逆に人間ではないだけに、
「犬の世界の自分」
 とでもいうような存在に、さらなる同一感覚を持っているのかも知れない。
 そんな犬を大切にするのが人間なのだが、
「自分にはまったくかかわりのない」
 と思っているものに対しては、
「いくら同じ命のあるものだ」
 と言われても、ここまで極端に悲しむことはない。
 自分が勝っている犬でなければ、同じ犬であっても、
「その犬が、死のうが生きようが、自分にはまったく関係ない」
 ということで、悲しいとは思わないだろう。
 これが、昆虫などになれば、なおさらのことで、昆虫に至っては、種類によって、
「こんな連中は、存在しているだけ罪だ」
 と思えてくる。
 害虫と呼ばれるものであったり、
「百害あって一利なし」
 とでもいうような、蚊などの昆虫は、殺しても、かわいそうだなどという感情は一切持たないだろう。
 そう考えると、
「生類憐みの令」
 として、すべての動物を大切にするなどということは、土台無理なことであり、そうなると、動物一つ一つに細かい法律を定める必要があるだろう。
 そうなると、莫大な量になってしまい、見つかっている動物だけでも、制定するのに、果たしてどれだけ必要かということになる。
 しかも、それらんp動物が、人間とどのようなかかわりになるかというそれぞれのパターンも洗い出す必要があることから、
「永遠に無理だろう」
 と考えられる。
 これは、実はロボット開発における、
「フレーム問題」
 というものに、影響を及ぼすものであって、無限というものをいかに考えるかという主題となるのだろう。
 ロボット開発におけるフレーム問題とは、実は、タイムマシンにおける、
「パラドックス」
 という問題にも絡んでくるものであった。
 ロボット開月においても、タイムマシンにおいても、あるいは、万物においても言えることなのかも知れないが、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 というものである。
 基本的には、前後の状況から、その瞬間に繋がりがあるので、予見することは可能であるが、その前の瞬間を知らずに、いきなりその瞬間に飛び出すとするのが、タイムマシンの発想であり、ロボット開発においては、その無限の可能性に対して、いかに対応できるかということが問題であった。
 ロボットに関しては、次の瞬間に何が起こるのかという無限の可能性を、理解することができない。
 なぜなら、人間は、無意識のうちに、その判断ができているからであった。
 つまり、その理屈も分からずに、人間は本能からなのか、遺伝子による学習能力に著しく長けているからなのか、判断ができるのだが、その人間が作るロボットに、それ以上先の判断を委ねるということは、神でもない限りできるわけはないのだ。
 もし、人間を作ったのが神であるとすれば、きっと神は、人間にその能力を与えていることになるのだろう。
 しかし、それを別の、いわゆる人間が作り出すものに対して、与えてはいけないという判断からか、無意識に人間はできてしまうのだろう。
 できることを人間が無意識なのは、
「作り出すものに対して、人間が考察することができないようにするためにしていることではないか」
 と思うと、意識できていれば、人間は、
「与えることができる」
 ということになる。
 つまり、神は人間に、神と同じ能力、人間を作ったようなことを、させてはいけないということになるだろう。
 という考えに至るとすれば、
「ロボット開発というのは、神に対しての冒涜だ」
 と言えるのではないだろうか。
 ロボット開発というのは、それだけ、
「禁断のもの」
 であり、かつて、ロボット開発の基礎になる考え方として、いきなり、フランケンシュタインのような警鐘ものが出てくるというのも、実に皮肉なことである。