無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~
「ご近所トラブル」
になりかねない。
ペットを飼ってもいいところに引っ越すのか、それとも、ペットをペットショップに預ける形にして、飼い主を探してもらうか。
ただ、この場合は、ペットの血統書などの証明書が必要になるだろうが、それがもしなかった場合は、ペットの殺処分などということも視野に入れなければいけない。
確かにペットに罪はない。人間だって、
「生まれてくることは自分では選べない」
ではないか。
ペットの運命は、飼い主がどんな人間かということで決まってくる。人間の場合は、
「どんな親から生まれてくるか?」
というのと、同じではないだろうか。
ペットというのは、
「見ているだけで癒される」
という感情になるもので、犬や猫などは、目を合わせると、それだけで、心が通じ合えるかというような感覚になったりする。
特に人間同士の関係に疑問を持っていたり、人付き合いの苦手な人は、ペットに癒しや寂しさを紛らわせる思いを抱いたりするものだ。
それだけ、意思疎通ができていると思っていなければ、成立するものではないだろう。
それを思うと、
「ペットとの関係は、人間関係よりも大切だ」
と思っている人も多いことだろう。
人間関係はあくまでも表向きの顔であり、世間体や会社内における忖度や仕事においての自分の立場を表すという意味だけの関係だと思っている人が多く、その分、本来の自分の感情や気持ちの拠りどころは、本当であれば、友達や恋人に求めるのであろうが、そういう人がいない場合は、ペットにそれを求める。それが癒しというものだろう。
また、
「ペットがいるんだから、友達や恋人など必要ない」
と思っている人も多い。
人間に求めるものがペットで補えるのであれば、ペットの方がいいと思っているのだろう。
よく聞く言葉として、
「イヌはウソをつかない」
という人がいる。
確かに、人間は、簡単に友達であろうと裏切ったりするもので、
「同じ人間同士なのに」
と思っていると、余計に裏切られたりした場合に、そのショックも大きいのだろう。
一度そんなことがあると、人間不信に陥り、ペットに走るのだ。そういう意味で、ペットの存在はその人にとっての死活問題であり、友達は同僚は生活の上で仕方なくいるという程度にしか思っていないのだろう、
そういう意味でペットの存在は、次第に人間社会に根付いていったのだろう。
江戸時代に、徳川綱吉という将軍が、
「生類憐みの令」
という悪法を発行したことがあった。
「生き物を大切にしなさい。もし、犬を殺めたり、傷つけたりすれば、断罪である」
というような法律であったが、基本的には悪いものではない、
ただし問題は、どんな動物でも、大切にしなければいけないということになってしまうと、大切にしなければいけない優先順位をどこに持っていくかということが問題になってくるのだ。
というのも、
「生物地球科学的循環」
という言葉があるが、基本的に、生物というものは、
「弱肉強食」
の世界であり、その法則は、永遠のものである。
草食動物が草を食べ、肉食動物が、他の動物を食べる、そして、人間が食べるというような、
「食物連鎖」
というものが起こるのだが、
「形あるものは必ず滅びる」
という言葉が示すものとして、
「諸行無常」
というものがあるが、生物が滅びる。
つまり、生物が死んだり、草が枯れたり、動物の食後の排泄物などから、有機物が生まれ、それが分解されることで、肥料となり、植物の栄養となる。
このような連鎖を、
「生物地球科学的循環」
と呼ぶのだ、
それによって、うまく回っていくので、それらのどれかのバランスを故意に崩してしまうと、食物連鎖がうまくいかなくなる。
つまり、ある種の生物が異常発生してしまったり、本来は、もっといなければいけない動物が絶滅の危機にあったりすると、食物連鎖は、崩壊する。餌になるはずのものが存在しないと、それらの動物も生きられない。死ぬ動物が減ると、肥料がなくなり、植物も育たない。
バランスというのは、どれか一つが崩れると、その関係のあるすべてに影響するものであり、そこには、優先順位は、本来は存在しないのだ。
そういう意味で、
「故意に何かの命や形あるものを壊したりした場合は、必ずどこかにしわ寄せがいく」
という意味で、殺人であったり、器物破損などには法律があり、破ると罰せられる。
人間以外の生物についても、
「動物愛護法であったり、世界的には、ワシントン条約のようなもので、ペットや、絶滅危惧種などは守られている。しかも、絶滅危惧種の保護は、明らかに食物連鎖や、生物地球科学環境に大きな影響があり、勧善懲悪とは少し違った感覚になるのである」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味で、
「生類憐みの令」
というのは、人間以外の動物が人間よりも優先されるということであり、果たしてそれが、生物地球科学環境に逆らっていないかということが問題である。
あくまでも、この法律が、
「勧善懲悪と、自分に後継ぎができないということで、占ってもらった結果、前世での殺生が、災いしているということを言われたということでの、あくまでも、自分の都合だけによる法律だということが問題なのだ」
何しろ、動物を傷つけた者は、死罪になったりという、あきらかに戒めだけで片付けられるものではないのだ。
ただ、それでも、これは、
「将軍が戌年だから、余計にイヌを保護する」
ということであり、その時点で、いかに自己中心的な法律であるかということが分かるというものだ。
そんな身勝手な法律により、江戸市民は震えあがり、犬を捨てる人が増えて、幕府が犬の収容所を作ると言った、本末転倒なことにもなったのだ。
徳川綱吉という人間は、
「犬公方」
と呼ばれ、民衆から嘲笑を受けていたのだろうが、実際には、
「政治家としては、優秀な人」
という話であり、この一つの法律だけで、
「とんでもない悪法を発行した将軍」
として、語り継がれているのは、気の毒なことだろう。
そんな時代もあったが、結局は動物よりも、人間が大切だというのは、人間であれば当たり前のことであり、それ以上でもそれ以下でもないということであろう。
それで生態系が守られ、うまくいっているということは、
「同種のものが同じ種族を第一優先とする」
という考えは、他の動物であれば、本能であり、人間も、その本能通りに動いているということなのだろう、
だが、人間には他の動物にはない、
「考える力」
があるという。
感じる力は他の動物にもあるのかも知れないが、あくまでも、人間の目から見た感覚であり、どこまで信憑性があるのか分からないが、思考能力があるのは人間だけだといういう考えは、それなりにあり得ることだと誰もが信じて疑わないことであろう。
人間以外の動物に対して、人間はそれぞれに種族を定めたり、分類することで、莫大な種類の動物の、さらに種族などをうまく切り分けている。
例えば、犬という種類の動物がいて、その中に、柴犬やマルチーズ、セントバーナードと言った種族がいるというような感じである。
作品名:無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~ 作家名:森本晃次