無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~
だが、研究員が謙虚でいなければいけないなどというわけではない、むしろ、気持ちは研究に対して、実直でならなければいけないだろう。それなのに、実直になっていることを自慢し、傲慢に考えてしまうことが、余計な思いを抱かせて、それがそのまま、まわりを不快にさせることで、巨大ブーメランにやられてしまうのだ。
一般人の考え方も、
「立派な考え方だ」
として認めることで、自分の考えが高貴なものだと考えられるようになるのが、理想だといえるのではないだろうか。
研究員の仲にも、謙虚な人はいて、絶えず新人の時のような気持ちを忘れずに、精進している人もいる。
彼らは、その分、自分に自信を持ち切れていない。
これは一般人の考えに限りなく近いといってもいいだろう。
「一般人よりも、頭のいい、限りなく一般人に近い秀才だ」
というべきだろうか。
研究室には、傲慢であるが、石のように固い意識を持った人間と、自分にあまり自信が持てないが、一般人に近い秀才。その極端な連中が、バランスよくいてくれるところが、一番うまく機能するところではないだろうか。
教授はその時にはすでに気づいていたが、誰にもそのことを話さなかった。彼らが、自分で気づいてくれるのを待っているということだ。
研究員たるもの、何事も自分で気づかなければいけないものだ。少なくとも、ここにいる連中はそれくらいの能力は持っていると思っていた。
そうでなければ、大学の研究室で、
「選ばれた人たち」
として、研究などできるはずがないからだ。
そのような研究員たちを抱えている教授は、自分の研究室に誇りを持っていた。だから、傲慢な連中も、いずれは、角が取れて、丸くなってくるだろうことを感じていた。だが、まだまだ頭が固いのはいかんともせず、その硬さに、本人たちが気づくかどうかだと思っているのだった。
この場合の
「サイボーグから、アンドロイドへの研究に変わった」
ということは、
「原作のあるものを脚本として起こすのか、それともアイデアしかないものを、一から作り上げていくか?」
ということに近い気がしている。
「前者が、サイボーグで、後者がアンドロイドだ」
というわけだ。
普通に考えれば、
「元々原作があり、オリジナルではない分、楽ではないか?」
と言われるであろう。
しかし、脚本というものの本質を知っている人であれば、そんな安直な考えに至ることはないだろう。
そこから一歩進んで先を見ることが、大切だということで、
「段階的展望」
とでもいえばいいのか、まるで三段論法的というか、あるいは、
「わらしべ長者のような発想」
というのか、そういう発想が生まれてきてしかるべきではないだろうか。
「脚本と小説というものの違いを考えれば分かることで」
と、教授は説明をはじめた。
「脚本と小説の違いというのは、その主旨によるところが大きいんだけど、分かるかな?」
と聞いてきた。
「小説というのが、本にして、それを読者が読むことで、物語が紡がれていくことで、脚本は、ドラマや映画にするための内容を書いておくものであって、それを見て、俳優が演技して、コンタクトを振るのが、監督というイメージでしょうか?」
と一人がいうと、
「そう、その通りなんだ。だから、それを一歩進めると、小説というのは、すべてが、本の中で完結してしまうので、読者は文字でしか理解できない。いかに読者に理解してもらえるかということを文章に込めるから、想像力が豊かになるというわけだね。でも脚本の場合はそうではない。あくまでも俳優がいて、監督がいる、脚本家というのは、一つの物語を作るうえでの、、設計書のようなものを書いているというところかな? だから、監督や、俳優のことも考えなければいけない。なるべく、監督しやすいように、場面設定なども、適度に書いたり、とにかく、脚本では主観を入れてしまうと、俳優や監督の仕事にまで制限を掛けてしまうところが難しいと言われるんだよね。だから、本というのは、直接的であり、脚本は間接的だといえるのではないだろうか? そうなると、どっちが難しいといえるのかな?」
という教授に対して、先ほどの研究員は、
「ずっと小説の方が難しいと思っていたんですよ。何といっても、オリジナルであるからね。だから、脚本もオリジナルの方が、原作があるよりも難しいのではないかと思っていたんですが、今の話を聞いて、少し考えが変わってきましたね」
というではないか。
もう一人の今度は女性の研究員が、
「それは、でも私は前から感じていました。脚本というのは、本当に主観を入れないもので、そこは、俳優がいかに演技をしやすいか、監督の手腕がいかに生かせるか? というところまで考えられているのが、脚本だと思っていました。だから、何度も書き直しさせられたり、放送局の会議室で、会議が繰り返されているんだって理解をしていましたよ」
というのだった。
そして、また先ほどの研究員が口を開いた。
「なるほど、脚本だって、原作がある方が却って脚本として起こすのは難しいんだ。企画の段階では、脚本家のことを考えて企画を立てませんからね。あくまでも、脚本家が、自分で原作を解釈し、いかに、演技しやすい。そして、監督の実力が出せるような脚本を書くかというのが、技量になるでしょうね。ただ、何も知らない人から。原作があるんだから、オリジナルよりも簡単だと思われることが嫌なんでしょうね」
と言った。
「そうなんだ、だから、アンドロイドとサイボーグにおいても、サイボーグの方が、元は人間なんだから、元はあるという意味だけで、開発をしやすいというのは、大きな勘違いであって、相性が大きな問題になってくる。先ほど話したように、移植だって、相性が合っていなければ、後からいろいろな不都合や拒否反応が出てくることで、却って、移植した人間を苦しめることになる。だから、ドナーとの相性を、これでもかとばかりに調べるんですよ。そのために、移植に対しても、慎重にならざる負えない。人は、移植に対して倫理的な面が大きくて、抵抗があると思っているかも知れない。確かに、それは間違いのないことであるが、もっと実質的なところで、慎重にならなければいけないところがあるんですよ、それが大きな問題だったりします」
と、教授は話した。
「なるほど、そういうことなんですね? 自分たちが解釈したことと反対のことも、そちら側の目に立って考えないと、見なければいけないところを見逃してしまって、うまい選択ができない場合があるんでしょうね。特に慎重には慎重を重ねなければいけないような案件であれば、余計に、まわりから見る必要があるということですね」
と言われた教授は、
「そう、その通りだ。だから私は実践的な研究を皆とやってきている中で、そのことを肌で分かってくれば、皆は一人前に近づいていって、今の私の立場くらいには、すぐに行けると思うんだよ。こういう研究は、右肩上がりの直線というよりも、その時々のタイミングで一気に上がる場合がある。そんな階段状のものを目の前に見ながら、進んでいくというのが、大切なことだと思うんだ」
と言った。
作品名:無限と矛盾~知恵ある悪魔の創造~ 作家名:森本晃次