早朝と孤独
なぜなら、高級店が、価格を安くしてわざわざ早朝営業をする必要がないからである。
逆にそんなことをすれば、高級店としてのコンセプトが失われ、高級店の意味がなくなってしまうからだ。
「女の子の選択肢が極端に狭い」
これはメリットの裏返しであるが、メリットとして仲良くなれるというのがあるが、それは、裏を返せば、
「毎回同じ女の子になってしまうほど、出勤の女の子が限られている」
ということである。
ただ、この場合のメリットとして、
「早朝の女の子は、昼や夜に出勤できない。つまりは、昼職だったり、学生だったりということであるからだ」
と言えるのではないか。
それは、プロのテクニックを求める人にとっては、残念だが、元々早朝ソープで、高級店のような技を求めるのが無理なことなのだ。それを思えば、
「長所の裏返しが短所、短所の裏返しが長所」
ということで、悪いことばかりではないということだ。
そういういろいろな意味で、早朝を利用する人も少なくない。
さて、そんな早朝ソープを、最近の鏑木は利用するようにしている。
彼はちょうど、一か月に一度、会社で夜勤があったのだ。その日は、
「夜勤明け」
となって、もう出勤しなくてもいい。
「帰って寝るだけなんだから、帰る前に、スッキリするか」
というが、そのきっかけだった。
鏑木の会社から、ソープ街のある一帯までは、徒歩で十五分くらいであろうか。
仕事が終わるが、午前五時、そこから途中の二十四時間営業の牛丼屋で、朝食を食べて、ちょうどいい時間に入ることができるのだ。
いつも相手をしてもらっている女の子は、かずみという。
背がそれほど大きくなく、本当にかわいらしいと思えてならない。
他の女の子を知らないわけではないが、今のところ、自分が知っている風俗嬢の女の子では、ナンバーワンだと思っている。
ただ、いつも早朝の同じ時間に相手をしてもらっているという感情から、
「どこか、自分が彼女を一人占めしているように思えてならない」
とは思いながら、それが贔屓目になってしまっているというのは、否めないだろう。
だが、
「最近の風俗嬢は、アイドルや女優などにまったく引けを取らない」
と思えるのだ。
実際に、完全に顔を隠しているわけではないが、パネルの写真などで、きれいに映るように加工しているところがあり、それを、
「パネマジ」
というが、パネルマジックの略で、少しでもきれいに見せるという店側の作戦でもあるのだ。
ちなみにパネマジというのには、たぶん、もう一つの理由があるのではないかと思う。その理由というのは、
「身バレしない」
というもので、
「要するに、少しでも自分の身元がバレないようにする」
ということのようだ。
実際に、家族は昼職をしている人の会社の人にバレてしまって、仕事を失うということもあるかも知れないからだ、
店によっては、来たお客さんが、女の子の知り合いかどうか、女の子が対面する前に、隙間から垣間見るということをしているところもあるようだ。
坊主を目指す
鏑木が、早朝ソープに通うようになったのは、確かに最初は、割引だったり、他のメリットによるものだったが、今では違う。一人の女の子に遭いたいがためのものであり、これは、
「風俗で遊ぶ」
という感覚よりも、
「好きな人に会いに行く」
という感覚に近いものだ。
それまで、ずっと風俗遊びを繰り返してきた鏑木だったが、こんな気持ちになったことは、今までになかったかも知れない。通い始めてすぐであれば、それも致し方ないのかも知れないが、風俗通いという面でいえば、ある意味、ベテランだといってもいいだろう。それを思うと、本当に自分でも不思議な気がした。
最初は分からなかった。どうして、一人の女の子に執着するのかということをである。
だが、よく見ていると、その女の子が、昔自分が知っていた女の子に似ているということを感じ始めたからだ。最初見た時はそんな気持ちにならなかった、しかし、途中から、
「似ている」
と思うようになったのだが、それは以前の記憶が変わってきて、記憶の女の子が似ているように変わってきたのかと思ったが、どうやら、目の前にいる女の子が、会うたびに、記憶の垢の彼女に似てきているような気がするのは不思議な感じだったのだ。
では、その記憶の中の女の子というのは、いつ育まれたものなのかというと、今から十年くらい前の、大学時代にさかのぼることになる。
当時の鏑木は、家がお寺をやっている家に生まれたことで、
「自分は坊主になる運命なのだ」
ということを、自覚し、大学生活を送っていた。
高校時代までは、坊主になるという意識はまったく揺るぐことはなく、勉強も人生もそのつもりで歩んできたのだった。
思春期にも、さほど性欲が強かったわけでもなく、それよりも、
「俺は坊主になるのだ」
という意識が強かったことで、ほとんど迷いもなく、煩悩もなかったことから、大学受験も、それほど苦痛だと思うこともなく、こなせていたのだ。
「どうせ、寺を継ぐんだから」
という甘い気持ちがどこかにあったので、大学受験にそこまでプレッシャーを感じなかったのだろうが、それが却ってよかったのかも知れない。
どちらかというと、要領がよかった鏑木は、勉強方法も的確だったようで、大学入試のための勉強という意味でいくと、成功者だったのだろう。
さほどの苦痛を感じることもなく大学生になれた鏑木は、
「この世の春を謳歌しよう」
という気持ちで、大学生になったのだ。
これは、寺を継ぐという意識からではなく、誰にでもいえることではなかっただろうか。
大学時代の四年間を過ぎれば、そこから先は、誰にでも訪れる社会人という壁。高校時代までは、進学ということが一番で、そのために高校生活を犠牲にしてきたところがあった。
だが、その苦痛を乗り越えれば、その先には、
「この世の春」
と言ってもいいであろう、大学生活が待っているのだ。
それまでの、禁欲生活から解放され、その先には、
「極楽浄土」
が待っている。
と感じながら、受験勉強に勤しんでいた鏑木だったが、大学の合格発表にて、自分の合格を確認した瞬間から、それまでの感情と少し違ったものが芽生えてきたのも事実だった。
「これでやっと、大学生活という極楽浄土にいける」
という思いを素直に受け止め、合格という快感に浸っていられたのは、数日間だけだった。
数日してから、次第に頭の中が覚めてきたのを感じたのだ。
「極楽浄土というのは、人間の最終経路であって、そこから先はないのだ。そして、極楽浄土というものは永遠なのだ」
という思いが頭の中に現れてきたのだ。
実際の大学生活というのは、四年間しかない。その四年を楽しく過ごすことはできても、そこから先は、誰もが就職ということに足を踏み入れる。
そこでは、誰もが、新たな道であり、これまで最高学府という肩書を持っていたが、今度は、社会人一年生として、そこから先、今までとはまったく違った毎日を過ごさなければいけなくなる。