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早朝と孤独

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 ゆとり教育の間の受験勉強だっただけに、ゆとり教育の間は、詰込みではなく、想像力などを生かした教育だっただけに、受験勉強とはまた違ったものだった。従来からのマークシートで、押し付け教育においての試験がそのままだったのだ、
 勉強するということに抵抗があったわけではなく、
「どうして、孤独を感じながらの勉強に勤しまなければならないのか?」
 ということが大きなことだったのだ
 受験勉強において、本来勉強したいことが反映されていないことへの不満もあった。だが、それを考え始めると、最初に感じた、
「孤独の勉強への嫌悪」
 という思いは消えていった。
「そもそも、試験勉強というのは、孤独の元にするものではないのかな?」
 とさえ思い始めたのだ。
 そこには、図書館や、ファミレスで集団で勉強している姿を見ていると、まったくライバル意識が感じられず、
「受験を舐めてるんじゃないか?」
 とすら思えてきたからだ。
 受験というものを手放しで肯定はできないが、そういう制度がある以上、自分だけで抗ってみても、どうなるものでもない。
 それなら、
「郷に入れば郷に従え」
 という言葉もあるように、自分から受験に参加するという気持ちでいけば、いかにすれば合格できるのかということを、研究することもできる。
 いつの間にか、そこまで考えることができるようになったのは、やはり、お寺を継ごうという意識が芽生えてきたからであろうか。
 大学に進むのも、
「将来はお寺を継ぐんだ:
 という思いを抱くようになったからなのだ。
 だが、大学に入学するという目的を達成してみると、
「合格する」
 という目的に対しての達成感は十分にあったのだが、そこで、
「自分にとって、受験とは何だったのだろう?」
 という答えにはほど遠い気がしていた。
「せっかく受験をするのであれば、受験をする意義が分かれば、勉強をするにおいても、有意義な時間が過ごせるのではないだろうか?」
 と考えるようになっていたのだ。
 実際に勉強している時は、充実感があった。
 それは、受験勉強を楽しいと感じたからで、それはきっと、
「やればやるだけ、自分の知識となり、その知識となるスピードは、自分が想定していた幅の許容範囲内だったからだ」
 と思っている。
 受験勉強をやるのであれば、できることなら、ストレスを最小限にとどめたい。そのためには、ストレスをなくすことは土台無理な話で、少しはやわらげることができるという程度に違いない。
 そんなストレスを和らげるには、まず、
「勉強をして面白い」
 と感じることが大切だった。
 そのためには、充実感を味わうことが一番で、充実感を味わうには、自分で勉強をした成果を感じることだった。
「勉強すればするほど、身についてくる」
 と感じることが一番大切なことで、得た知識を、どれだけたくさんの過去問などで試してみることではないだろうか。予備校の先生にアドバイスをもらいながら、試験結果の検証をするというのも、嫌いではなかった。
 そういう意味で、受験勉強もやり方によっては、ずっと孤独に苛まれるということはないはずである。
 だが、受験勉強を、孤独だと考えて乗り切ってきたのが、鏑木だった。
 彼はこれを、
「自分が勝者だ」
 と思うことで、自分を納得させていた。
 勉強が身についてきたのも、ある意味孤独だから、まわりの影響を受けなかったということであり、孤独だから成し遂げられたことだと思っている。
 孤独なのは、誰にでもいえることで、それを自覚できるかどうかということが重要だった。
「重要」という言葉と、大切」という言葉は似通っているが、実際には違うものである。ここで、鏑木は、本当は、
「大切」
 という言葉を使うべきだし、そうだと思っているのだが、ここではあえてm
「重要」
 という言葉を使おうと思っていた。
 大切という言葉と重要という言葉は、どちらも、ある物事において、もっとも必要であったり、求められるものであり、そして、中心た本質と関係するとても大事なものだというような意味なのだが、厳密には使いわけられる。
「大切」
 という言葉が、
「自分にとって主観的な価値・ニーズがあること」
 であり、「重要」という言葉は、
「ある問題の理解・解決にとって客観的な価値・意味があること」
 になるという。
 要するに、「大切」というのは、主観的なものであり、「重要」というのは、客観的に見た場合ということになるのだ。
 ここでの大切ということと、重要ということを考えてみると、主観、客観という見る方向から考えるものであるが、今度は、
「孤独」
 という言葉から、何か似た言葉がないかと考えると、浮かんできた言葉が、
「孤高」
 という言葉であった。
 孤独という言葉と孤高という言葉は、主観客観という見方においては、どちらも、圧倒的に主観に近いものあろう。
 だが、大切と重要という意味ほど、近しいものではない。孤独と孤高と言う言葉には、歴然とした違いがあったのだ。
 孤独というのは、友達などの信頼できる人がいないということで、一人になってしまったことをいう。だから、寂しいという感情が基本的には湧くものである。
 だが、孤独を意識している人は、自分が孤独だとは思わなかったり、孤独を自分が望んだものだと解釈するだろう。後者においては、それが、孤高という言葉に近いといえるのではないだろうか。
 そういう意味では、孤独であっても、孤高だと思えるのであれば、両立はありえるが、この場は、まず、孤独だと思っている人が、
「寂しくない」
 と言えるのであれば、それは、孤高でしかないのだ。
 だからと言って、孤高が寂しくないというわけではない。
 孤高というのは、一般の人たちがマネのできないような、他の人とはかけ離れた高い境地にいることである。
 もちろん、勘違いということもあるだろうが、あくまでも、
「自分が他人とは違う」
 という意識を持っていて、そのことを誇りに感じることの方が、寂しさを凌駕してしまい、寂しいという感情よりも、
「他人にはないものを持つことで、他人とは違うという、至高の悦びに近いものだ」
 というものである。
 そういう意味で、言葉は似ていて、一人であるということは共通しているが、実際にいる場所、そしてその場所で感じるという意味で、正反対だといってもいいだろう。
 鏑木にとっての受験は、
「自分が孤高であるということがどれほど自分にとって、重要であるかということを、自分の中で証明すること」
 なのである。
 つまり、主観的に考えていることを、客観的に、価値や意味があるということを、証明するための恰好の方法だといってもいいだろう。
 そういう意味で捉えていたので、一人でも寂しくはないし、ハッキリとした目標があり、それは、合格するというよりも、さらにその先を見つめているということで、合格した時の達成感はすごいものだったのだ。
 それだけに、創造以上の感動があったのは、間違いないのだろうが、そのために、自分がいかに前に進んでいるかということが分からなくなった。
作品名:早朝と孤独 作家名:森本晃次